下の思い
夏の陽が傾きかけ、訓練場の端には柔らかな陽光が差していた。
鍛錬を終えた兵たちの声が遠ざかり、静けさが戻る。
「もう一回だ、レイブン」
ジークが木剣を構え、汗を拭いながら笑う。
「剣術ってこんなにも難しいんだね、はあはあ」
レイブンは息を整えながら構え直す。ふたりの呼吸が重なり、再び打ち合いが始まった――その時だった。
ヒュッ――
銀閃が走った。
「……!」
ジークが即座に身を翻す。
その一瞬に、音もなく背後から黒い影が滑り込んできた。
「遅いね」
殺気と共に振るわれたのは、鉄の重みを帯びた刃。
ジークの木剣が辛うじてそれを受け止めるも、凄まじい衝撃が腕をしびれさせる。
「誰だ……!」
木剣が弾かれ、数歩後退するジークの前に現れたのは、一人の少年だった。
赤い服を来たどこか無感情で異様な雰囲気をはなっている。
「やっと二人になってくれた。領主の息子っていうからずっとお家にこもってるもんだと思ったけど意外と自由なんだね」
「クローディアの……パシリか?」
ジークが血気混じりに問いかける。
「うん、まあ――そんなところかな」
少年は飄々と笑いながら、まるで悪びれもせず続けた。
「君だろ? 三人の傭兵を返り討ちにしたって。……楽しみだなあ、どれだけやれるのか」
「楽しむ暇なんてねえよ。……一瞬で終わらせてやる」
言い終えるより先に、ジークの足が地を蹴っていた。
爆発的な踏み込みで間合いを詰め、振り下ろされる一撃――
「終わりだっ!」
だが、その鋭さすら、相手には届かない。
オルクスは容易くそれをいなし、刹那のカウンターがジークの脇腹を穿つ。
「くっ……!」
血が噴き出す。だがジークは倒れない。
痛みに耐え、呻きながらも、再び斬りかかった。
だが全て、紙一重で交わされる。踏み込みのたびに返されるカウンター。
そのたびに、体に新たな傷が刻まれていく。
肩、太もも、脇腹――
全身から血が流れ落ちる。だが、どれも急所は外れていた。
(……こいつ、俺を見てる。観察してる……)
オルクスは“遊んでいる”のか、それともジークの限界を測っているのか。
いずれにせよ、即座に殺す気はない――それならば、好機だ。
ジークは一気に低く踏み込み、右足を地に叩きつけるようにして蹴りを放つ――が、
「っ……!」
ただの空振りだった。
狙いが外れ、地面を踏み抜くだけに終わる。大きな隙ができてしまう。
「気合いと腕力はあるけど――やっぱり、凡庸だね」
静かに告げられたその言葉とともに、鋭い一閃がジークの胸を裂いた。
「ぐっっ……!」
剣が手からこぼれそうになる。
ジークはたまらず後退し、膝をつく。
胸を押さえながら、血で視界が滲んでいく。
(……まだ、やれる……!)
それでも、立ち上がろうとするジークの姿に、レイブンは震えた。
「あのジークを……一方的に……」
耐えきれず、レイブンは剣を抜いた。
その小さな体から、研ぎ澄まされた気迫が迸る。
「僕が……相手だ!」
幼い声が空気を裂き、レイブンがオルクスに向かって走り出した――。
レイブンの細い剣が一直線にオルクスへと突き出される。
だが――それすら、オルクスにとっては容易い。
「……甘いなぁ」
その一言と共に、レイブンの攻撃を軽く躱すと、逆に踏み込んで腹へ鋭く蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
小さな体が軽々と宙を舞い、訓練場の土の上を転がる。
レイブンはそのまま倒れ込み、地を這うようにして顔を上げた。
「……っ……はぁ、はぁ……」
オルクスはそんなレイブンを見下ろし、肩をすくめながら言った。
「分かってはいたけどさ。……やっぱり、領主の息子ってのは甘やかされてるんだろうね」
ジークが歯を食いしばる。レイブンはその言葉に何かを返そうとするが、体が言うことを聞かない。
「いつもそうだ。上に立つ人間ってのは、自分たちのことしか考えてない。
綺麗事を並べて正義を語るけど――結局、下の人間のことは、金を産む機械か、戦場で死んでくれる便利な駒くらいにしか思ってない」
オルクスの声は静かだった。けれど、その奥にある怒りと憎しみは、紛れもない本物だった。
「苦労するのはいつもこっち側だ。命を削って、希望を抱いて、それでも報われない。……そういう世の中にしたのは、あんたら“上”の人間だよ」
その言葉が、レイブンの胸を深く抉った。
彼が背負う名が、そのまま“上の人間”を意味していることを――誰よりも、彼自身が理解していた。
オルクスの言葉を、否定することはできなかった。
レイブンの胸にも、痛みのような感情が湧き上がる。
(……そうだ、転生する前の世界にも、同じような人たちがいた)
目の前の数字と利益のために、現場で働く人々に無理を強いる上層部。
自分もまた、理不尽な命令に耐え、悔しさを呑み込みながら働いていた。
「仕方ない」と繰り返して。
昔の自分には、どうにもできなかった。
けれど――今は違う。
今の自分は、“上の人間”と呼ばれる立場にいる。
だからこそ、分かるのだ。
上に立つ者の苦しみも、下で支える者の痛みも。
「……そうだよ。僕も、昔は“下”の人間だった。
自分だけが苦労してるんだって、本気で思ってた。
国が悪い、社会が悪い、そんなふうに周りを憎んでた」
レイブンは、ゆっくりと立ち上がる。
傷だらけの体で、剣を杖のようにして体を支えながら。
「でも……本当にそうなのかな。
全部、上の人間のせいで終わらせていいのかな」
「何かを変えたいなら、まず自分が変わらなくちゃいけないんだ。
良いことも、悪いことも、結局は自分次第だって――今は、そう思ってる」
「人のせいにしてるうちは、何も変わらないよ」
その言葉に、オルクスの目が鋭く光った。
「……ふざけるなよ」
静かな声音のまま、怒りだけが確かに乗っている。
「じゃあ、戦争で親を殺されても……友達を失っても、同じことが言えるのか?」
「否応なしに戦争に駆り出された奴の気持ちを、考えたことがあるのか?
何も選べず、何も守れず、ただ奪われて――それでも自分が悪かったって言えってのか?」
レイブンの唇が、わずかに震えた。
「……」
答えは、すぐには出なかった。
その問いの重さを、軽々しく受け止めることなどできない。
だが――それでも、レイブンの瞳は曇らなかった。
「……言えない。言えないよ」
レイブンは目を伏せながら、ぽつりと呟いた。
それは逃げでも偽善でもなく、本心からの言葉だった。
「でも、同じ過ちを繰り返さないことは……できる。今の僕には、それができる立場にあるんだ」
顔を上げる。
その目は、まっすぐオルクスを見ていた。
「君の過去は、僕にはわからない。でもね……少なくとも僕は、争いのない世界を作りたいと思ってる。
誰かを傷つけなくても、生きていける世界を」
「争わず、奪わず、手を取り合って――世界がひとつになる。
それが、平和ってことなんじゃないかな。“平ら”で“和”が保たれた世界」
「それが……僕の目指す、未来だよ」
「――その未来を実現するために、お供するのが我々ですな、レイブン様」
低く、響くような声。
振り返ると、黒い甲冑に身を包んだ男が、夕焼けを背に立っていた。
黒髪、そして冷静さを湛えた青い瞳。戦場を幾度も駆け抜けてきたことを物語る風格。
レグニアの騎士、クレイグだった。
「我らが主君に刃を向けた報い……お前は、生かしては返さぬ。覚悟せよ」
風が一陣、地を這うように吹き抜ける。
静けさが戻った訓練場に、再び戦の気配が漂いはじめた――。
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