赤ん坊になってしまった
ある朝、目を覚ますと、見覚えのない白い天井が視界に広がっていた。
体は思うように動かず、寝返りを打つことすらできない。しかし、どこかが痛むわけでもなく、拘束されている様子もないようだ。
体を動かそうともがいていると、一人の女性がやってきた。
綺麗な黒髪に青い瞳、色白の若い女性だ。
「いい子にしてた?」
わけのわからないことを言うその女性に、何か返そうと声を出そうとするが、まったく声が出ない。
「あーぅ――うっあ――――……。」
おかしい。なにもかもがおかしい。見知らぬ場所、見知らぬ女性、そしてこの身動き一つ取れない状況。
――っ!
突然、女性が手を伸ばしてきたかと思うと、ふわりと体が宙に浮いた。
「あらあら、本当にかわいいわね。よしよし」
まるで赤ん坊をあやすように、優しく頭を撫でられる。
混乱がさらに深まっていく中、女性の背後から一人の男性が現れた。
金髪に青い瞳、色白の優しそうな男だ。
「レイブン、調子はどうだい?」
その男も俺の顔を覗き込むと、そっと頭を撫でてきた。
レイブン? 誰だそれは? そして俺は一体どうなって――
部屋の隅にあった鏡をふと見て、戦慄した。
そこに映っていたのは、髪もまだ生えかけの、色白の赤ん坊――俺自身だった。
まさか……これは、いわゆる“転生”というやつなのか?
背筋がひんやりと冷たくなる。
つまり、俺は赤ん坊として生まれ変わり、今目の前にいるこの若い夫婦の子供。
そして“レイブン”というのが、この世界での俺の名前……らしい?
頭の中で必死に状況の辻褄を合わせていると、さらにもう一人、誰かが部屋に入ってきた。
今度はちょび髭を蓄え、髪をオールバックにした、少し強面の中年男だった。
「こちらが領主様のご子息、レイブン様ですか」
その男も俺の顔を覗き込む。
「ふむ……領主様に似て優しそうな子ですな。目元などは奥様によく似ておられる」
見た目の印象とは裏腹に、穏やかな微笑みを浮かべた。
「そうだろう? 俺に似て、かわいいだろ?」
「いえ、私に似て可愛いのです!」
若い夫婦は幸せそうに笑い合った。
その後も、次々と人々が俺のもとを訪れた。
話から察するに、俺は間違いなくこの若い夫婦の第一子であり、どうやら彼らは“領主”という立場にあるらしい。
人がいなくなった部屋で、俺は天井を見上げながら静かに思った。
(もしこれが夢なら……どうか、覚めてくれ)
けれどその願いは、朝の光によって否定された。
窓から差し込む朝日が、優しく額を照らす。
そのぬくもりが、まるでこう囁いているかのようだった。
――これは夢じゃない。これが現実だ、と。
赤ん坊の体に宿った異邦の魂。
静かに、しかし確かに、第二の人生が始まっていた。
それから幾年かが過ぎ――俺は“レイブン”として、この世界での生活にすっかり慣れていた。
そして今、6歳になった俺はついに、この領主家の跡取りとしての正式な教育を受けることになった。
「レイブン様、本日からお勉強が始まりますわ。覚悟はよろしくて?」
いつも世話をしてくれていたメイドのロザリンが、くすっと微笑む。
覚悟……と言われても、今さら緊張はしない。
赤ん坊としての再スタートから6年、俺はただ無為に過ごしていたわけじゃない。
周囲の言葉を覚え、礼儀作法を学び、屋敷の中で起こることすべてを観察してきた。
だが――それはあくまで“子供の遊びの範囲”。今日からは“本物”が始まる。
案内された部屋は、これまで一度も入ったことのない奥まった書斎のような場所だった。
大きな机と椅子が並び、棚にはびっしりと分厚い書物が詰まっている。
窓から差し込む朝の光に照らされた空間は、どこか神聖で、重々しい空気をまとっていた。
「失礼いたします」
静かに部屋へ入ってきたのは、白髪混じりの長髪を後ろで束ねた、老紳士だった。
背筋はぴんと伸びていて、所作の一つひとつに品がある。
「初めまして、レイブン様。わたくしはルドヴィク。今日からあなた様に読み書き、歴史、礼儀、政治、そして魔法理論の基礎をお教えいたします」
魔法――その言葉に、わずかに心が躍った。
やはりこの世界には“それ”がある。
日常の中でも、灯りをつける魔法や、掃除を補助する魔法は見かけていたが、正式に学べるというのはまた別だ。
「はい、よろしくお願いします」
まだ幼い声で、できる限りしっかりと返事をする。
老紳士はうなずき、微笑んだ。
「ふむ、よろしい返事ですな。ではまずは文字の読みから参りましょう。これが“アール文字”の基本で――」
分厚い書物が目の前に開かれた。見たことのない文字の羅列、だがどこか論理的で、形に規則性がある。
ルドヴィクの授業は厳しく、しかし的確だった。
文字、計算、歴史に政治、そして魔法理論の基礎。一つひとつがこの世界で生きるための武器となることを、彼は口を酸っぱくして説いた。
「レイブン様、知識を持つ者は、力を持つ者より恐れられるものです」
その言葉に、俺はこの老紳士をただの教師ではなく、導師のように思うようになっていった。
そしてある日の授業。ルドヴィクは壁に掛けられた地図を指しながら、静かに語り始めた。
「さて、今日はあなたの父君、アルベルト様が治める“レグニア領”についてお教えしましょう」
地図の中央、やや西寄りに小さな領地が印されている。それが、俺が生まれ育ったこの土地――レグニア領だ。
「規模は小さく、軍事力で他国に並ぶことは難しい。ですが――経済的には、周辺諸侯の中でも頭一つ抜けております」
ルドヴィクが指したのは、領地を流れる大河と、そこに沿うように点在するいくつもの村と街。
「南の山からは上質な鉄鉱石が採れ、それを加工する鍛冶の技術は、諸国の中でも高く評価されています。そして何より、中央を流れる“ミルゼ川”――この水運が、領地の命脈となっているのです」
川を行き交う船の絵が、地図の端に描かれていた。
「川を使った交易により、遠く離れた都市や諸侯とも繋がりを持つことができる。小さな領地であっても、人と物を集める“力”があるのです」
レグニアが「富む国」として知られているのは、この流通の強さと、職人たちの技術あってのものだという。
俺は知らず、拳を握っていた。父が築き、母が守ってきたこの領地を、俺は今ようやく“誇り”として胸に抱けた気がした。
だが、ルドヴィクはそのまま声を落とす。
「……その富が、常に平穏をもたらすわけではありません」
彼は隣国との境界線をなぞった。
「西隣にある“アルゼノート侯国”――かつて一度、このレグニアに兵を差し向けた因縁のある国です。現在は表向きこそ交易の関係を保っていますが、ここ最近は不穏な動きが報告されております」
「不穏な動き……?」
「商人を装った間者の潜入、境界線に近い村での小競り合い、そしてアルゼノート軍の再編成。あくまで状況証拠に過ぎませんが……偶然にしては重なりすぎているのです」
ルドヴィクの眼差しは真剣だった。単なる“学び”としてではなく、警告として――今、俺にそれを告げている。
「レイブン様。あなたは、いずれこの地を背負う者。現実から目を逸らしてはなりません。学びとは、己と領民を守るための盾であり剣なのです」
その言葉に、幼いながらも俺の胸に火が灯った。この国の未来を、知識と意志で切り開くために――
俺はこの世界に生まれ直したのかもしれない。
それからというもの、俺はより一層勉学に励み、書物を読み漁り、領地の現状と外の国々の動向を調べるようになっていった。
その過程で、ある一つの思いに至る。
――このままでは、いずれレグニアは飲み込まれる。それを防ぐには、学びだけでは足りない。“仲間”が必要だ。
俺はまだ子供で、軍を率いることも、政治を動かすこともできない。だからこそ、今から動き始める必要があるのだ。共に歩む“力”を得るために。
そうして始まった、仲間集め。最初に出会ったのは、ひとりの少年――ジーク・バルナードだった。
初めて小説というもの書きました。話の構想はできても文字に起こすのは難しいものです。この作品を見てくださる方が一人でもいれば幸いです。日々精進していきます。