菅井さんの赤ちゃん1
翌朝、日が登る前に起き出した私は再び菅井小夜さんを拘束していた。隣では同様に早起きした学者の男が何か使えるものはないかと他の乗客の手荷物を空けて回っている。
昨日拘束に使ったカーテンは引きちぎられて解かれてしまったので、何かもっと強固な物をと思って探していたら、どういうわけかトランクに手錠を持ち込んでいる人が居たようで遠慮なく使わせてもらった。
学者の男は、手錠がカップルで来ていた一見温厚そうだった男性の持ち物であることや、他にも鞭やボンテージが入っていたことを無神経にも教えてくれたけれど、個人の秘密を暴く趣味は無いので聞かなかったことにしておいた。
そのままエレスネシアに着いていたら観光のためにもあの穏やかそうなのほほんカップルの後をこっそり着いて行こうなどと思っていたけれど、実行することにならなくて本当に良かった。人は見た目ではわからないものである。
まだ機内の座席の上で寝ている菅井さんの腕の自由を奪うと、私も他の乗客の荷物から使えるものがないか探し始めた。
「居なくなってしまったとはいえ、他人の持ち物を勝手に漁るのはなんとなく良心が咎めますね」
「背に腹は変えられないだろう。こっちだって緊急事態だからな。お、これなら食べられそうだな」
男が手渡してきたのは木の蓋のついた昔ながらの壺だった。中にはぎっしりと何かが詰まっているのが開けなくても分かった。
「もしかして、梅干しですか!?梅干しって、何年も食べられる物なんですか?」
「イマドキの味に作られて売られているものは無理だが、昔ながらの製法で作られた物は何年も食べられるんだ。殺菌作用のある塩が大量に使われているかどうかの差だな。この梅干しは美味いぞ」
年代物の梅干しなんて見たこともなかったけれど、かなり形が崩れている以外は普通の梅干しだった。
「本当だ!これ、なかなかいけますよ!これだけでご飯が何倍もいけそうです!」
「そうか、じゃあ後は保存可能な米を持ってきた奴がいれば完璧だな」
「はぁ……そんな人居るとは思えませんね」
残念ながらコメは見つからなかったけれど、乾パンを持ってきている人が居た。男によると、乾パンの保存期限は通常5年ほどらしい。
缶の方も錆びたり気圧差で壊れたりしている様子もないので大丈夫そうだけれど、機内食があれだけ腐敗しているのだから食べられるか微妙なところだろう。
「そういえば、花村さんのスマホって電源入るんですか?」
花村というのはこの植物学者の男の名前である。昨日見た免許証には花村芳人という名前が書いてあったので一応覚えておいたのだ。
「俺も昨日目が覚めてすぐに確認したが、電池が切れて使えなくなっていた。他の乗客も軒並み電池切れになっていたな」
花村はモバイルバッテリーを二つも機内に持ち込んでいたらしい。二つともしっかりと充電して搭乗したはずなのに、そのどちらも充電切れになってしまっているようで充電することができなかったらしい。
「やっぱり、わけわかんないですけど、時間が何年も経ったと考えるしかなさそうですね」
「気圧差のせいか、電池が破裂している携帯もかなりあるようだな。発火等はしていないのが幸いだな」
携帯で日時を確認したり、国際電話で救助を求められないかと思ったけれど、簡単にはいかないようだ。
「それより、良かったのか?小夜さんなんて呼んで、随分仲良くなっていた様だが、本当にまた拘束するのか?」
「別に、呼べとゴネられたから呼んでただけで、もうそんな呼び方するつもりはありませんよ」
男をきちんと名前で呼ぶことにしたのは、女の方を菅井さんと呼ぶことに決めたので、両者の扱いのバランスを取っただけのことである。
少なくとも、子供をトランクに入れたような人を親しげな名で呼ぶ気には到底なれなかった。
「あのトランクには赤子が入ってた。それは間違い無いだろう。でも、密閉されたあのトランクから赤子が消えたってことは、機内の人間も同じように消えたって事になる。とりあえず、あの女は機内の人間を殺して回ったわけじゃないことは分かったんだ。それでも拘束するのか?」
「菅井さんが他の客を殺していないことは分かっています。でも、赤ちゃんのことは菅井さんが殺したも同然です。私は事情を聞くまで菅井さんを開放するつもりはありません」
こと赤子のことに関して、虚言の多い菅井さんが素直に話してくれるかは分からないけれど、無理やりにでも本人から話を聞かなければ気持ちが収まりそうになかった。
怒りのような、悲しみのような、憎しみのような気持と、それでもまだ何かの間違いであってくれと思うごちゃごちゃとした気持ちを抱えたまま一晩を超えるのは酷だった。もうこれ以上このモヤモヤを抱えていたくないと言うのが本音である。
トランクの荷解きが終わる頃、外で作業していた私たちに届くほどの叫び声が機内から聞こえてきた。どうやら菅井さんが起きたらしい。
「話を聞きにいきましょう」
花村さんは一瞬面倒臭そうな顔を見せたけど、何も言わず私の後ろをついてきてくれた。
「ちょっと、あんた!なんでまた私を拘束するのよ!みんなを殺したのはあんたのくせに!飯を分けて安心させておいて私に罪をなすりつけるわけ?」
「菅井さん、あなたを拘束したのは私です」
「は?ちょっと、初穂ちゃん?あなたが……?あぁ、分かったわ、この男に弱みでも握られてるのね!そうなんでしょう?安心して。この手錠さえ外してくれたらこんな男、私がギタギタに……」
「違います。菅井さんを拘束したのは私です」
いつまでも問答が続きそうだったので、はっきりとした口調で言い直した。菅井さんは発狂するだろうという予想に反して、驚きながらも静かに私の言葉の真意を窺っている様子だった。
「私が菅井さんを拘束したのは、菅井さんが私たちに危害を加える可能性のある人物だと判断せざるをえなかったからです」
「私が初穂ちゃんに危害?ちょっと待って、私たち仲良くなれたと思っていたのにどういうこと?この男ならまだしも、初穂ちゃんに危害を加えることはないと誓えるわ」
「私たち、昨日菅井さんが眠ったあと、菅井さんのトランクの中の荷物を調べさせてもらったんです」
「私のトランクの鍵は行方がわからなくなっていたはずだけど?」
「鍵ならあんたが倒れている間に俺が回収していた」
「やっぱりあんたの差し金だったのね!!」
花村が入って来たことで一気に話がややこしくなってしまった。菅井さんは私に対しては冷静に話をしてくれるけれど、やはり花村が入ってくると急に冷静さを無くすようだ。
「トランクを勝手に開けたことはすみません。でも、昨日菅井さんと話をして、私たちはどうしても菅井さんのトランクを調べなければならないと考えたんです。その、命の危険があったので……」
「命の危険?機内からは隔離されていた荷物コンテナの中にあったトランクに他の乗客の死体を隠したとでも言いたいの?」
なぜここで他の乗客の話になるのか。菅井さんの反応に花村と私は困惑するしかなかった。トランクの中を見たと言えば赤子の話になると当然のように思っていたからだ。菅井さんには誤魔化しているような様子もなく、私たちが言わんとしていることが全く分からないという顔をしていた。
菅井さんは赤子と一緒に飛行機に登場したと言っていた。もしかしてトランクの中に赤子を入れたのは他の誰かだったのだろうか。それとも、菅井さんは搭乗前日から随分お酒を飲んでいたと話していたから赤子に関する記憶が混濁しているのかも知れない。
「俺は離陸時のあんたを覚えているが、赤子なんて連れていなかった。どうやったのかは知らないが、手荷物検査をすり抜けてカバンの中に子供を入れているのかとも思ったが、あんたの鞄はオムツやら哺乳瓶やらでパンパンで人を隠している形跡はなかった。」
「当然でしょう?私はあの子を抱いていたの。鞄に入れたりなんてしてないわ!あの子は離陸してからずっと泣いていたの。初穂ちゃんも泣き声を聞いていたでしょう?」
「いいえ。私、機内で赤ちゃんの声なんて一度も聞いていません」
「そんな……」
「俺はあんたを覚えているが、スマホをずっと持っていただけで赤子を抱いているのを見た覚えは一度もない。もちろん声もな」
私はむしろ花村の記憶力の良さの方に驚いてしまった。前方の席に座っていたはずの花村がどうして最後尾の菅井さんを覚えているのかの方がよっぽど疑問である。
「手荷物にはもちろん赤子のパスポートなんてものはなかった。あんたが寝た後、こいつから聞いた話じゃ、あんた、酒に酔った勢いで急に渡航を決めたそうだな。そんなんで乳幼児のパスポートなんてどうやって手に入れたんだ?」
「それは……酔っていて覚えていないけど、間違いなく連れていたんだから、出国ゲートの担当の人が気を利かせて通してくれたんじゃないかしら?だってほら、赤ちゃんをお母さんと離すなんて罪深いこと、誰もできるわけないんだから……」
「パスポートもない人間を出国させる方が罪深くてありえないんじゃないのか?」
菅井さんは花村の言い草にぐうの音も出ない様子だったけれど、言い負かされたことが悔しいのかキツく歯を食いしばって反抗するタイミングでも窺っている様子だった。
花村の言っていることは正しいが、ここまでの話し合いで菅井さんが酔って記憶が色々混濁していることは分かりきっているのだから、そんな言い方をして必要以上に反感を買う必要は絶対にないと思う。
少し黙っていてくれと花村に視線を送りながら、床に座り込む菅井さんときちんと目を合わせて話を続けることにした。私がしたいのは菅井さんの糾弾ではなく、赤子の真実を知ることなのだ。
「それで私たちは、もし、もし仮に菅井さんが赤ちゃんと一緒に渡航するために、手段を選ばず……赤ちゃんをトランクの中に隠しているのだとしたら、赤ちゃんが心配だと思ってトランクを勝手に開けてしまいました。すみません」
「命の危険があったからトランクを開けたっていうのはそういうことだったのね。一応言っていることは理解できたわ」
「トランクの中には赤子が入っていた形跡があった。だが、赤子の姿は無かった。他の乗客同様、突然姿を消したものと思われる」
「……あんたが赤ちゃんも他の皆も消したんじゃないの?」
「トランクは私も一緒に開けたんです。花村さんが赤ちゃんをどこかへやったわけじゃないことは私が保証します」
「つまり……私があの子をトランクに入れたと……?」
菅井さんは一度考え込むように黙り込んだけれど、頭を左右に降って分からないと言った。
「そんなこと……私がするはずがないわ。だって、私はあの子のお母さんで……だから絶対に違うわ。私があの子をここに入れるなんてこと……そんな、こと、絶対ないのよ……?でも……じゃあ、どう、して……?」
菅井さんは髪を激しく描き毟りながら、赤子に関する記憶をかき集めようとしているようだった。フラフラとした足取りで、昨日私たちが開けてそのままになっていた彼女のトランクの元に歩いて行った彼女は、明らかに赤子を入れていたであろうその場所を見て、何かを思い出しているのかもしれない。
思い出したくないようなことも思い出さなければならないのかもしれないけれど、私たちに出来ることはこれ以上何もない。
ただ、拘束はそのままで良いという彼女の言葉からは、彼女が記憶の糸を紡ぎ直すのにそう時間はかからないだろうということが窺えた。私たちもまた、聞くのが辛くなるような話を聞く覚悟をしておく必要がありそうだ。
私と花村は再び乗客の荷物を確認して使えるものや食べられるものが無いか捜索する作業を再開した。 どことなく重い気分を引きずっているせいか、私の作業をする手はあまり進んでいなかった。
「おい、気持ちは分かるがさっさと作業を進めてくれよ」
「あ、すみません。なんか菅井さんが気になっちゃって……」
菅井さんのトランクを眺める背中からは哀愁のようなものがにじみ出ているようであり、それでいて昨日のように、いつ半狂乱で暴れだすのかとひやひやさせられるような危うさが感じられた。
「赤子を酔ってトランクに入れて殺したことを思い出したら菅井さんはどういう行動に出ると思いますか?」
「さあな。自殺でもするか、思い出したことを認めずに俺達に逆ギレかましてくるか……。どちらにしろ手錠で拘束はしてるんだ。あの怪力で襲ってこられたとしても致命傷を負うと言う事はさすがにないだろうし……」
「いや、さすがに致命傷の心配はしていませんよ!」
「そうか。そんなことより、天気が怪しいのが気になるな。作業を急ぐぞ。」