私と花村とエレスネシア
「ヴゲ……まずっ」
「折角作ってやったのに不味いとは失敬だな」
私たちは海を見下ろす高台で遅い昼食を取っていた。正午ごろこの場所に着いて、火をおこしたり下ごしらえをしたりしているうちにすっかり時間がかかってしまった。
「だってこのオオバコって雑草ですよね?全然おいしくないですもん」
「雑草だから不味いと決まっている訳じゃないんだが。そんなに言うなら食べられる虫探しに変更してもいいんだぞ?」
「それは絶対に嫌です!頑張って食べますよ!食べればいいんでしょう⁉」
私は半ばやけくそで、湯ざらしにしてあく抜きした野草たちを頬張った。虫を食べることを思えば幾分マシだけれど、塩も何もついていない草を食べるのはさすがにキツイいものである。
仕方なく胃に流し込んだものの、悪寒が走り、胃液が喉までせり上がってきた。体がこの草を食べるのを拒んでいるようだ。
本当に食べられる野草なのか心配になってきたけれど、蒼い顔をしている私の横で、花村の方は「案外いけるな」などと言いながらガツガツと野草を平らげていた。
「なんかこう、キノコ採りとか、木の実集めとか、そういう美味しそうなのにしませんか?」
「残念ながら俺はキノコについてそこまで詳しくない。しかも、あれはハズレを引くと命に係わるものが多い。さすがにこのカオスな環境で食べようという気にはなれんな。木の実は論外だ。春に落ちてる実なんて食ったらそれこそ腹を下すぞ」
「はぁ、そういうもんですか。残念です」
野草は湯がいてしまうとカサがかなり減ってしまうので、随分たくさん採ったつもりでいたけれど、あまりお腹が膨れた気がしなかった。
「やっぱり海に魚を取りに行きましょうよ」
「あんた釣りなんてしたことあるのか?」
「ないですけど、食べたい気持ちならたっぷりありますよ?」
「というか、ここからどうやって釣る気だ?」
私達は海にたどり着いた。けれど、海は切り立った崖の下。海面までざっと30mはあるだろうか。
私はなんとなく、昔、家族旅行で行った東尋坊みたいだなと思ったけれど、花村に言わせると、作りとしては知床半島の方が似ているのだそうだ。
「長い長い釣り糸になるものでも探すか、崖を下るかだが、どっちも現実的じゃないな。少なくとも俺はこんな崖を下って無傷で戻って来る自信は全くない」
「そんな情けないことを自信満々に言わないで下さいよ」
私も当然そんな自信はない。男の花村ならなんとかなるのではないかと思ったけれど、やっぱり無理らしい。がっかりである。
「まあ、この体は元の体よりは丈夫みたいだが、まだ完全に慣れたわけじゃないからな」
「ん?……そうなんですか?」
「あんたはどうだ?新しい体は前とかなり変わったんじゃないのか?」
「えっと……あー、どうでしょう」
すっかり忘れていたけれど、私たち3人の姿は遭難と同時に変わっていた。別のことで頭がいっぱいだったので、あまり考えないようにしていたというのもあるけれど、正直言って姿が変わったことをこうしてうっかり忘れてしまっていたぐらいには、私はこの体に馴染んでいた。
こんな訳の分からないことをあっさり受け入れてしまっている原因は、やはり発狂した菅井さんが初日にトイレの鏡を全て割ってしまったことにあるのではないだろうか。
自分の姿を確認する機会が無い分、受け入れやすかったのではないかと思う。
花村は身長や視力に変化があったようだけれど、私の方は、体を動かす感覚も機能面も、以前とたいして変わらないように思えた。野菜の拒絶加減すら依然とまんま変わらないといった具合である。
そして何より、花村や菅井さんの元々の姿をほとんど覚えていない私にとって、今のこの姿かたちこそが花村であり、菅井さんであると認識してしまっていた。
遭難以前の姿も一度は見ているはずだし、免許証の写真を確認したりもしたけれど、やっぱり花村と言えばこの姿が先に浮かんでくるし、以前の姿と言われても、もはやピンとこなくなってしまっていた。
だからこそ、姿が変わったと言われて「そういえばそうだったっけ」というような薄い反応になってしまうのも、私にとっては割と仕方のないことなのではないかと思う。
「そう言われてみると私、コロナにかまけてほとんど運動してなかったはずなのに、結構動けるな、とは思ったんですよね」
「そうなのか?」
「はい。遭難前の私なんて、留学が中止になって不貞腐れてまくってて……バイトにも行かず家の手伝いもせず、毎日毎日こたつで寝てるだけでしたから、いつもに輪をかけて運動不足だったはずなんですよね」
「驚くほどの体たらくだな」
「ははは、本当ですよね。こんなに動いたのに筋肉痛来ないなって思ったんですけど、そういえば体が変わってたんでしたね、ラッキーじゃないですか!あははは」
「この状況でなぜ笑ってられるのか心底理解に苦しむが、そこまで図太いとむしろ羨ましいとさえ思えるな」
花村は私を図太いと図太いと言うけれど、絶対にそんなことは無いと思う。少なくとも虫を食べようとしたり、食料調達そっちのけで新種植物の調査を始める花村の方がよっぽど図太いのではないだろうか。
「そうか、あんたは元々留学する予定だったのか」
「はい。フランスに」
「あ?エレスネシアじゃないのか?」
「エレスネシアには気が狂って急に行くことに決めた」とはさすがに言いにくい。言えば絶対にバカだ、考えなしだとうるさいことを言われるのが目に見えているからだ。
「そういう花村さんはどうしてエレスネシアに向かってたんですか?」
「俺が質問しているんだが?」
「花村さんが答えてくれたら私の方も質問に答えてあげますよ」
エレスネシア行きを決めた言い訳を考える時間稼ぎのつもりで何気なく言った言葉だけれど、そう言えば花村はどうしてエレスネシアに向かっていたのだろうか。
冷静に考えてみると、花村はおかしなところが多いと思う。今でこそ、誰かの荷物から適当に拝借しているらしいラフな格好をしているけれど、そもそも最初はスーツ姿で飛行機に乗り込んで来ていたのだ。
それなのに花村の荷物はと言えば、サバイバル缶だったり、簡易火打石だったり、採集用の剪定鋏だったりと、実に植物学者らしいフィールドワークに特化したものばかりだった。
その荷物とスーツの対比に違和感を覚えたけれど、エレスネシアで学会発表でもあったのだとしたら、そういった、ちぐはぐなことにもなるのかもしれない。
しかし花村の答えは私の予想に全く反したものだった。
「俺は人を追ってこの飛行機に乗ったんだ」
「はい?」
スパイ映画でしか聞いたことがないような言葉に思わず聞き返してしまった。たった10人の乗客のうちの誰かを追ってこの飛行機に乗り込んだと言うのだろうか。
「そいつが空港に向かって、エレスネシア行きの手続きを済ませているのを見て、俺も慌てて同じチケットを買ったんだ。だからエレスネシアがどんなところなのか、実のところ全く知らないまま飛行機に乗ったんだ」
驚いた。まさか三人とも目的地エレスネシアがどこなのかすら知らずに飛行機に乗っていたとは考えもしなかった。
思わず頭を抱えてしまったけれど、これは逆に自分の所業が話しやすくなったとも言えるのではないだろうか。
「なんだ?俺はきちんと話したんだから、今度はあんたにもキッチリ話してもらうぞ?」
「分かりました。話します。話しますけど、あんまり呆れないで下さいよ?」
私はエレスネシア行きを決めた顛末を簡単に話した。さすがに結婚云々の私的な話まではしなかったけれど、勉強したのに新型コロナのせいで留学できなくなってイラついたという、今考えると無茶苦茶な動機もこの際だと思って話しておいた。
細かいところは頭に血がのぼっていて覚えていないけれど、気が付いたら航空券を持って空港にいたというところまで話すと、花村はがっくりとうなだれながら「それじゃあの女とほとんど変わらないじゃないか」と言った。
「目的地に関して使える情報が無いって意味では花村さんも似たようなものじゃないですか」
「俺をあんたと一緒にするな」
「というか、追ってたのって誰のことなんですか?」
乗員乗客の免許証とパスポートは集めてあったので名前を言われれば一応顔写真ぐらいはぼんやりと思い出せるはずである。
「覚えてない」
「は?」
「だから、覚えてないんだ」
「はい?何言ってるんですか?自分が追っていた人のことですよね?なんで覚えてないんですか⁉それじゃ私や菅井さんとほとんど一緒じゃないですか!」
「あーあーうるせぇな!遭難事故以来、記憶がかなり抜け落ちてるんだ!大方、事故の時の衝撃で頭でも打ったんだろうが覚えてねぇもんは覚えてねぇんだし、仕方ねぇだろうが!」
完全に開き直っている花村は、仕方がないと繰り返し言うけれど、それならそれで、よく私や菅井さんの事をバカに出来たものである。
「搭乗前の私や菅井さんの事は覚えていたのに、追っていた人が誰かは分からないってことですか?」
「さっきも言ったが、記憶が所々飛んでるんだ。あんたらの事はたまたま覚えていたんだろう」
アニメやドラマの知識でしかないけれど、記憶喪失になると、どうでもいいことは覚えているのに大事な記憶だけがなくなるというのはよく聞く気がする。それだけ追っていた人物の事が大事だったということなのだろうか。
他の乗客の手荷物をかなり念入りに調べている花村の姿が思い起こされた。あれはつまりそういうことだったらしい。
「そういえば、ひとつ気になることがあったんだが……」
「なんですか?」
「まぁ、今の話を聞くと納得できる部分も多いんだが、遭難している俺達三人には共通点があるんだ」
「共通点、ですか」
そう言われてもパッと思いつくことはほとんどなかった。
私たちはあまり似てもいないし、出身地もバラバラで、むしろ合わないところの方が多いようにすら思える私たちに共通点なんてあっただろうか。
「手荷物を全員調べたんだが、片道チケットを買っているのは俺達三人だけだったんだ」
「あぁ、そういう話ですか。それならさっき言った通り、三人とも急にエレスネシア行きを決めたからじゃないんですか?」
「そもそも自分で手配した記憶すらないあの女や、追っていた人物がいつ帰国するか分からなくて買えなかった俺はともかく、なんであんたは買ってないんだ?フランスに留学に行く予定だったなら往復券ぐらい買えただろう?」
痛いところをついてくるなぁと思ってしまった。確かに私は、高くても片道分の航空券が買えればいいやと思ってチケットサイトを見ていた。
けれど、実際のところ、往復の券が買えないほど高価だったというわけではないのだ。むしろ、復路券もセットで買った方がお得だったのに、あえて買わなかったのだ。
「日本に戻りたくなかった、とか……そういう事か?」
「まぁ……そういうことになるのかもしれませんね」
私は日本にいることに耐えられなくなって日本を飛び出したのだ。
だからこそ、こうして嫌いな野草を食べてまでして必死に生き延びようとしている割に、日本が恋しくて帰りたいと思う事は一度もなかったのだと思う。
生き残りたいとは思う。けれど、それは決して日本に戻るためではないのだ。
「それで体が変わってラッキーなんて発想になるわけか」
「え?」
「あんたはもう今までのことに未練がないんだな」
花村の言葉は、ぼんやりとしか考えていなかったことを的確に言語化してくれたようで、すんなりと受け入れることが出来た。
もう未練が無いから航空券を買わなかった。もう未練が無いから飛行機を破壊することにも反対しなかった。
それで言うと、最愛の子供と帰る場所を無くし、共に飛行機をぶち壊した菅井さんは私と似たようなものなのかもしれない。
「じゃあ花村さんは日本に帰りたいってことですよね?」
「あー、それはどうだろうな」
てっきり日本に帰ることを考えて行動していたのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
「俺はあんたらが日本に帰りたと思ってると考えていたんだ」
「花村さん自身はどうだったんですか?」
「俺は……そうだな、実のところ俺も、自分の帰る場所が日本にあるってわけじゃないんだ」
「海外のどちらかですか?」
「ま、単に日本じゃないってことだな。それに、ここは研究のし甲斐がある物ばかりだろう?こいつらを調べ尽くすまで、当面帰る気にはなれんな」
あまりに花村らしい答えに噴き出してしまいそうになった。今朝のあの腹立たしいほど生き生きと調査していた姿を思えば、ここを調査しつくすまで帰りたくないという言葉もあながち嘘ではなさそうだ。
「それじゃ、採集を再開しましょうか」
食事とその片付けをしながらとはいえ、随分と話し込んでしまった。私たちは広げた荷物を再び背負うと、午後の採集へと繰り出した。




