コロナ禍の外語学生
「ツラい。ツラすぎる」
2020年。世界は新型コロナウィルスの脅威により一変した。人々の暮らしは変化せざるを得なかった。
「リモートワークにリモート授業。そうやって代わりのあるものはいいよね…」
松本初穂、外語学部三年生。本当は今日、留学生として海外に飛び立つ予定でした。
子供の頃から海外に憧れ、独学で色々な国の言葉を学びながら、人気のため難関となっている語学系の学部になんとか合格し、語学習得にすべてを費やした2年ののち、ようやく留学だと思った矢先のパンデミックである。
首都圏の緊急事態宣言の長期発令と同時に、海外への渡航は厳しく制限されることとなった。やむを得ない理由がある場合を除いて、主要国のほとんどが厳しい入国制限を行っているため、留学できなくなってしまったのである。
「あんたいつまでいじけてるつもり?鬱陶しいわねぇ」
「お母さん、今日は大人しく泣かせてよ。本当は今ごろ、空港でチェックイン待ちしてるはずだったんだから」
「13時の飛行機取るって言ってなかったかしら?まだ7時だけど、いったい何時間前から待つ気だったのよ……」
「外国に行けたならきっと楽しみ過ぎてそうしてたはずだよ」
「あっそ」
掃除を終えた母は冷たい空気を体に纏ったまま、私の寝そべっているこたつに潜り込んできた。
「冷たっ!」
「いいじゃない。コロナが流行ったおかげで、今頃いなかったはずのあんたで暖が取れれるんだから」
「私で暖をとらないでこたつの温度を上げてよ」
「ケチね、もう」
母が冷えきった足を私に押し付けながらこたつ布団を手繰り寄せると、隙間から入り込んだ冷気でこたつの内部温度は一気に下がった。築40年のこの古い家に、保温性などというものはない。古くなった建具の隙間から風が入り込むこの家では、こたつの外は室外に等しいのだ。
「はぁ、こんなオンボロ日本家屋……っていうかこんなに寒い国に未だに住み続けなきゃいけないなんて、全部全部コロナのせいだ……!」
「じいちゃん、ばあちゃん。コロナは悪いことばっかりじゃなかったわよ。初穂はこれからも二人が建ててくれた家に住み続けてくれるみたいよ」
「こたつに入ったまま仏壇を拝むんじゃありません!あと、コロナが落ち着いたらさっさと出てくから!」
今回の留学は一年間を予定していた。家族は留学には否定的で、金銭的な援助は一切しないと言われていたこともあって、高校卒業直後から今日までひたすらにバイト詰めの生活をしてきた。
串カツ屋のバイトも今は客の入りが少ないため、休みが多くなっている。海外に行くことが出来なくなった今は、お金を稼ぐ意義があまり見いだせず、やる気もなくなっていたところだったので、そこは好都合だったかもしれない。
リリリリリリリンッ……!
玄関で電話が鳴っているけれど、聞こえないことにして読書を続ける。玄関は家の中で一番寒い場所なのだ。
「初穂、あんた出てよ」
「やだよ。どうせセールスでしょ?無視でいいじゃない」
もう、と文句を言いながら母がこたつを出て玄関へ向かった。セールスの電話だろうとは言ったものの、母が電話に出るとなると、電話の相手が誰なのか、つい気になってしまうものである。
私は一度こたつに潜って、さっきまで母が入っていた玄関に近い側に移動してこたつから顔を出すと、腕を伸ばして少し障子を開け、会話に耳を傾けた。
あ、お祖母様だ。
母が義理の母にあたるお祖母様と電話で話す時、いつものだらけきった母ではなくなる。背筋をキチンと伸ばし、丁寧で柔らかい口調に変わった母を見れば、無理をしているのが嫌でも分かってしまうのだ。
父と母は格差婚だ。父は富山の豪商の次男で母は商業高校卒の田舎のクリーニング屋の娘だ。離れて暮らしていることもあって、祖母と話すのは未だに緊張するらしい。
会話の内容までは聞こえなかったので盗み聞きするのは早々に諦め、さっきまで読んでいたフランス語の辞書を再び読み始めた。
なんといっても祖母は私の留学の数少ないスポンサーの一人なのだ。語学系の学部に進むと決めた時、学費を出すのを渋った家族を説得し、学費を肩代わりしてくれたのも祖母である。
支援してもらっているからには「勉強を頑張っているという姿を祖母に見せなければ」という意識が働くせいか、祖母の気配を感じると自然と学習意欲が湧くので、あまり交流は多くないけれど、私にとって祖母はとても大事な存在なのである。
「お祖母様なんだって?」
電話を終えて戻って来た母にそう尋ねたのは、母の表情がいつもと少し違って見えたからだ。今まであまり見たことがない固い表情をした母に、なんとなく嫌な予感がするのを感じた。
「あんた、学費肩代わりしてもらう代わりに、お祖母様となんか約束した?」
「約束?したかな?」
なんせ当時の私は、折角合格した憧れの語学系大学の学費を出してもらえないかもしれないという状況をなんとかしようと、かなり必死だったのだ。YESの返事を引き出すためなら何でもするぐらいの気持ちで臨んでいたのは覚えているので、どうでもいい約束の一つや二つしている可能性は否定できない。
「約束どおり、あんたの結婚相手、お祖母様が見つけて下さったそうよ」
「は?……結婚相手?」
「学費を半分負担してもらう代わりにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが選んだ相手と結婚するって約束したって、本当なの?」
「いや、覚えてはいないけど……」
そこで言葉を切ったのは、約束は覚えてはいないけれど、その程度の条件ならあっさり引き受けそうだなと我ながら思ってしまったからである。 私にとって結婚は海外よりも遠くにある現実味の無いものだ。結婚に夢や希望を抱いたこともない。
外語学部には「外国の男性と国際結婚したい!」と考えて留学を計画する友人も多いけれど、私はあまり共感できた試しがない。
「それで、お祖母様が結婚しろって?」
「えぇ、良い人が見つかったそうよ。コロナが落ち着いたら顔合わせがしたいって」
「わ、わお……」
「わおって、あんたねぇ……」
母は呆れて物も言えないようだが、私はまたしてもコロナさえなければどうなっていたかな?と考えるのを止められなかった。
―わかってるの?お祖母様は一度言ったら考えを変えない人よ?
―学費はもういくらか払ってもらってるんだから簡単には断れないわ
―今さら断るなら学費をすぐに返さなくちゃだけど、うちにはそんなお金ないわよ?
―相手はどんな方なのかしら?お祖母様の紹介だもの……心配だわ
―あんた『自分が相手で良いと言うなら相手は誰でもいい』なんて言ったそうね?
―自分の言葉にはきちんと責任を持たなくちゃいけないわ。いい勉強になったでしょう?
―どうやって断ろうかしらね?せめて相手が良い人で、結婚を数年後にできるよう交渉できればいいんだけど……
―そもそも私たちの反対を押し切るから……
母が矢継ぎ早に何か言っているのが聞こえたけれど、何も耳に入ってこなかった。
―コロナさえなければ、私は今頃飛行機の中にいた
―コロナさえなければ、海外に行けた。それだけでよかったのに、それすら叶う前に代償を払うことになってしまった
―コロナさえなければ、海外に居れば、結婚しろなんて言われても気にならなかった
―コロナさえなければ、海外で留学中に向こうで仕事を見つけてしまえば、卒業後は日本で暮らさずにいられた
―コロナさえなければ、日本で結婚なんかする羽目になってこの国に縛り付けられることもなかった
―コロナさえなければ……
「聞いてるの?初穂」
「ごめん、何だった?」
「さっきお祖父様からも電話があって、お相手の話聞けたわよ」
「うーん、別に興味ないや」
「……そう」
私はなんとなく、これ以上母と2人きりで居間に居たくなくて、暖房ひとつない自分の部屋に行こうと部屋を出た。
障子を後ろ手に閉めると、背中から母のため息のようなひとりごとが聞こえた。
「でも、良かったわ。お祖母様とコロナのおかげで、初穂が結婚して日本に残ってくれることになったんだから……」
その瞬間、私の理性が弾け飛ぶのを感じた。ぐしゃぐしゃになった感情がやり場を探すように脳みそを揺らし、気づいた時には罵詈雑言を多言語であべこべに叫びながら、私は玄関の外へと駆け出していた。
視界が狭く、息が荒く、頭がぼーっとするのがたまらなく不快で、寒いのも気にせず畑の向こうの駐車場に停めてある車に乗り込んだ。
車の中には私のスーツケースがある。旅券も買えず、留学先の手配も出来なくなったけれど、なぜか留学の準備をする手を止められなかったからだ。
虚しくなるだけだと自分でも思っていた旅支度だけれど、お金もパスポートもお気に入りの枕も、全部入っている。これさえあれば世界がどんな状況でも、どこにでも行ける気がした。
私は片手でスマートフォンを操作しながら、車を空港へ走らせた。見慣れたチケットサイトは空欄が目立つけれど、航空券の販売が完全に止まっているわけではない。この際、国はどこでも良い。
ニュースでは今はほとんどの国際便が欠航になっていると言っていたけれど、なんとかすれば一般人の私でも渡航可能な国がひとつぐらいあるかもしれない。
チケット代は高いだろうけれど、使う予定を無くしたお金ならそれなりにあるのだ。片道のチケット代ぐらいならいくらなんとか用意できるはずだ。
父とも母とも仲は良かったけれど、いつもなんだかんだ言って私の海外行きを阻止しようとしていた。お祖母様も応援してくれていると思っていたけれど、結婚で私を日本に縛り付けようとした。新型コロナなんてもののせいで、私の留学計画は台無しになってしまった。
そう思ってたけど違う。私がその気になれば、誰も私の事を止める事なんてできないんだ。私が進み続けて、皆を振り切れば誰にも止められずに済むのだ。
信号が変わり、私がアクセルを強く踏み込むと、遠くでクラクションの音が鳴るのがかすかに聞こえた。