1 出会い
ずっとずっと、この見えない壁の向こう側へ行きたいと思っていた。
ただ一度でいい。あらゆるしがらみから解放されて、不要だと言われ続けていた、人や動物や自然──世界そのものの息遣いを知りたかった。
小さな少女が、本当に心からそれを願っていることを知っていたのは、人ならざる彼らだけだった。土色の大きな体躯を地に伏せ、琥珀色の穏やかな静寂を宿した瞳を向けて、飛べない翼で体を撫でてやりながら、彼らは少女の願いを見つめていた。
いつか必ずと願う少女は、あまりに非力だった。
だから彼らは少女の願いを叶えてやった。
自分たちだけがそれをできると、知っていたからだ。
それは特別なことなど何もないはずの朝だった。日頃は人に従順であった彼らは突如その巨体を暴れさせて周囲を阿鼻叫喚の渦に陥れた。
そして混乱の最中、少女を逃がしたのだ。
彼女を囲んでいる壁の向こう側へと。
朝靄が立ち込める街の外れ、トゥーリは穴蔵から外へ出ようとする小栗鼠のように用心深く辺りの様子を窺っていた。
まだ寝静まっている人々のほうが多いのだろう。時折通行人を見掛けるものの、彼らに気づかれないように行動することは不可能ではないように思えた。
手巾で頭部を隠し、土で汚れた空色の服を手ではたいて整えたトゥーリは、ポケットから赤い木の実を取り出した。
口の中へ入れて噛み潰すと、すっぱさに眉根がぎゅっと寄る。それでもゆっくりと味わい、ポケットにまだたくさん残っていることを確認した。
昨日の朝からトゥーリは木の実しか口にしていない。しかしあの林の木にはまだコケモモやグミが実っている場所がいくつかあった。だからまだ大丈夫だと自分に言い聞かせる。
これから路上で身を隠せる場所を探して、そこから街の様子をじっと観察するつもりだ。
トゥーリは勉強ができるし、年の割に知識が深いという自負があったが、いかんせん世間知らずであった。
だからこの街の住人がどんな風に暮らしていて、どんな常識と非常識があるのか、しっかり観察してからでないと街人に紛れるのは危険だと判断したのだ。
追っ手はまだ一度も目にしてはいないが、だからといって慎重さを欠いては悲惨なことになるだろう。
これからのことに大いに不安はあった。
しかしまだ十一歳のトゥーリは、きっと何とかなるはずだと楽観的でもあった。質屋で換金できそうな腕輪を付けていたことは幸運であったし、多少の苦労は乗り越えてみせるという覚悟だってあった。何より彼らが決断したことに間違いがあるはずもない。
トゥーリは緊張に激しく脈打つ心臓を宥めながら路地に足を踏み出した。
結果として、トゥーリは自分が予想していたよりもずっと世間知らずで、子供であるということを思い知らされるはめになった。
観察するための隠れ場所を見つけるよりも前に、見ず知らずの男性に声を掛けられたのだ。
「どうしたんだい。迷子かい?」
親切そうに笑っている中年男は、警官でも軍人でもないから、声を掛けられただけで警戒する必要はない。その人がどんな職業なのかは、服装を見ればだいたいわかるという話を聞いたことがあるが、トゥーリには制服でなければ見当がつかなかった。なんとなく商人っぽいと思っただけだ。
それよりも迷子に見えてしまったことに焦って、慌てて首を横に振る。
「違います! その……散歩をしていたんです」
「散歩? こんなところでかい?」
トゥーリは内心で冷や汗をかいた。
街中で散歩に向かない場所というのがあるのだろうか。しかし今更違うとは言えないし、正直にそう言ったとしても、じゃあ何をしていたのかは答えようがない。
「そうです」
ごく自然に見えるように頷いたが、男性の目は同情するように細められた。
「そうか。じゃあ朝市に来ないかい? 朝食を奢ってあげるよ」
「朝市ですか?」
「ああ、この通りの先に市場があるだろう? そこでちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。そのお礼に御飯を奢ってあげるよ」
市場という言葉にトゥーリは色めき立った。たくさんの食料や雑貨や衣服を売る店がひしめき合っている場所だ。知識では知っているものの、それが実際にどのような場所であるのか、見てみたいという思いが急速に膨らんでいく。
トゥーリは金目の物である腕輪は隠していたし、着ている服も薄汚れていたし、何より子供である。この男性が物取りなどではないという予想ができた。となると、やはりただトゥーリに手伝ってほしいことがあって、そのお礼に朝食を奢ってやろうということなのだろう。トゥーリにしても、それはありがたいどころか願ってもないことだ。
それなりの警戒心を発動させた後、トゥーリは首を縦に振った。
「ありがとうございます、おじ様。お手伝いさせていただきます」
男性は僅かに目を見張ると、笑みを深くした。
「そうか。ありがとう。じゃあ、行こう、こっちだよ」
左手を差し出されて、トゥーリは困惑した。
どんな意図があるのかわからなかったのだ。握手にしては手の向きがおかしい。
「手を繋いで行ったほうが、迷子にならなくていいだろう?」
「あっ、えっと、そうですね、そうします」
トゥーリは慌てて彼の左手を握った。こんな、言わなくてもわかるだろうという態度でされることが理解できない、というのは恥ずかしい。だが男性は特に気にした様子もなく歩き出した。
そしていくらも進まないうちだった。
「おい、おっさん」
頭上から声が降ってきた。
大きく張りのある声は幼さも含んでいたのに、はっとさせられる強い響きがあった。男性が、手を繋いでいるトゥーリにしかわからないくらいに体を強張らせる。
声がどこから聞こえてきたのか、それを確かめようとトゥーリが顔を上げた直後、隣の男性の真上に少年がいるのを見た。
驚く間もなかった。
商人風の男性は肩を踏まれたのか跳び乗られたのかはわからなかったが、その衝撃で悲鳴を上げながら膝から倒れ込んだ。トゥーリも一緒になって倒れそうになったが、途中で手を離されたおかげでたたらを踏んだだけで済む。
少年は綺麗に地面に着地すると、流れるような動作で振り返ってトゥーリの腕を掴み、自分の背後に立たせた。
この時、トゥーリは周囲には二階建ての、壁面が真っすぐになっている住宅らしき建物しかないことに気がついた。しかもトゥーリたちがいたのは道路のど真ん中だ。
一体この少年はどこからやってきて、歩いている大人の肩に乗るという芸当をやってのけたのか。まさかという思いが浮かんでくる。
少年は街中ではほとんど見ない、褐色の肌に黒い髪をしていた。袖や裾口を絞る形の服を着て、腰に布を巻いているのも特徴的だった。
「おい、おっさん。市場は逆方向だろ」
肩を押さえて踞る大人の前に堂々と立ち、落ち着いてさえ見える彼はトゥーリとほとんど身長が変わらない。
顔を上げた男性は、トゥーリを誘った時と全く変わらない笑顔で少年を見た。
「いきなり何をするんだ。やんちゃが過ぎるぞ、坊主」
立ち上がって膝の汚れをはらう男性が、急に奇妙に思えた。なぜ笑っているのだろう。
「市場は、そっちじゃ、ねぇだろ」
誤魔化そうという意図を感じ取ったのか、少年は同じ言葉を強調しつつ繰り返した。
「市場に行く前にちょっと用事があっただけさ。悪いが定員は一人だ。坊主は別の仕事を探しな」
穏やかに応じ続ける男性に対し、少年はふんと鼻を鳴らした。
「そんな嘘通じると思ってんのかよ。そんな、いかにも人攫いですってナリしといてさ」
人攫いという言葉を聞いてトゥーリは驚いて男性を見た。彼がそうだったのかという驚きではなく、そんな言葉が出てきたことに対してだった。
「人攫いだってわかる格好をしている奴なんかいるわけないだろう?」
男性の少年に向ける目が厳しいものになる。
「格好じゃなくて、あんたの様子だよ。しらばっくれてもいいけど、この子は置いてけよ。子供だからって俺に勝てると思うなよ。警官に突き出されたくなかったら、もう行ったほうがいいぜ」
探るように男性は少年を見た。
「俺はどっちでもいいけどな。あんたが捕まったら仲間が困るんじゃねーの」
途端に男性が怯み、忌々しそうに顔を歪めて舌打ちした。
「ソアニが……」
ボソリと呟かれた言葉がトゥーリの耳に届く。しかし少年のほうは平然としていた。
負け惜しみなのか、男性は犬を追い払うような仕草をしてから、背を向けて歩き出した。すると少年もトゥーリの腕を掴んだまま、逆方向へと駆け出した。
「えっ、ちょ、ちょっと!?」
何がなんだかわからずに口を挟めなかったトゥーリも、これにはさすがに声を上げた。
しかし少年は応えず、トゥーリが付いていくだけで精一杯の速度で走り続ける。やがて人通りが多くなってきた辺りで、ようやく彼は止まった。
振り返ってトゥーリがぜぃぜぃと肩で息をしているのを目にすると、茫然となる。
「お前、あれだけでそんなに疲れたのかよ」
呆れが混じった声にムッとしたが、やはり常識のわからないトゥーリは反論することができず沈黙した。
そんな彼女の様子を気にも止めず、少年は自分の言いたいことを言う。
「というかさ、あんたなんであんなわかりやすく怪しい奴に付いて行こうとしたわけ? 三歳児だってもう少し警戒心あるだろ」
「あ、怪しいと思わなかったの。わたしはお金なんて持ってないし、持ってるようにも見えないはずだもの。だから悪い人のはずがないと思ったの!」
「なんで物取りのことしか警戒しないんだよ」
ますます呆れる少年に、トゥーリは少しばかり矜持が傷つけられた。トゥーリは街の常識はわからないが、勉強はできるのである。
「だって他に何を警戒するの。あなたは人攫いなんて言ってたけど、人身売買は法律で固く禁止されているのよ。だから人攫いなんているわけないの」
少年はもうこれ以上はないという程に呆れた顔をした。
「はあぁ? 何言ってんだよ。実際にやる奴がいるから、法律で禁止されてるんだろ」
「…………あ」
間抜けな声でトゥーリは呟いた。
それはそうだ。実際にする人がいるから法律ができたのであり、それが昔のことだと言える根拠がトゥーリにはなかった。そして物取りだって、ちゃんと法律で禁止はされている。なぜ物取り以外のことを警戒しなかったのかといえば、周囲の大人たちの、この国は平和だと言う言葉に感化された、先入観によるものでしかなかった。
目の前で盛大なため息が出てきた。
「お前、本当はいいとこの子供だろ。誰かとはぐれたのか? 家まで送ってやるよ」
トゥーリはぐっと奥歯を噛み締めた。
「家は……ないの」
「へぇ、じゃあ家族は?」
「家族も、いない」
少年はきょとんとした顔でトゥーリを見た。
「じゃあ……どこに行くつもりだったんだ?」
どこに──。
胸の奥底にある、ゆらゆらしたものが熱くなるような心地がした。
「どこか」
あまりにも曖昧な言葉を、トゥーリは自分でも驚くほどはっきりと答えた。
少年が困った顔をする。
「それ、つまり行くところがないってことか?」
トゥーリは首を傾げた。
「そう、かな?」
そういうことになるのかもしれない。
またまた盛大なため息が聞こえてきた。
「お前さぁ、そんなんでふらふら歩いていたら、またすぐに人攫いに連れて行かれるぞ。そんな髪まで持ってるんだからさ。さっきのはまだ話のわかる奴で、運がよかったんだからな」
トゥーリは手巾から溢れていた自分の金の髪を見た。輝くような金色だ。この国で美しい金の髪は幸運の象徴でもある。一応隠してはいたのだが、完全に隠してしまうのも逆に目立ってしまう。この髪は人攫いの標的にもなるのかと落ち込んだ。
項垂れるトゥーリを別の意味で捉えたのか、少年は迷いながら切り出した。
「まあ、行くところがないなら、うちに来てもいいけどさ」
「え?」
まさかそんなこと言われるとは思ってもいなかったトゥーリは、呆けたように口を開けた。
「お前が来たいって言うならだけどな。あと、大人たちの許可が出たらだけどな」
少年のほうも咄嗟に口にしてしまったのか、言い訳のように付け加える。
「許可が出たらいいの?」
「いいけどさ……」
喜色を滲ませた顔で尋ねたトゥーリに、少年は拍子抜けしたように答えた。
「行きたい!」
これからのことに対する不安が一気に解消されそうな提案に、トゥーリは飛びついた。本当は自分で感じていたよりも、不安は大きかったのかもしれない。目を背けていただけで。
「じゃあ、来いよ」
「うん」
少年が差し出した手に、トゥーリは素直に手のひらを重ねた。
「って、お前バカかよ!? 何で疑いもなく付いて来ようとしてるんだよ!」
我に返ったように少年が怒鳴った。
「え? え?」
「少しは疑えよ! さっき人攫いに遭ったばっかだろ!」
「え? でもあなたまだ子供じゃない」
「子供は犯罪者にならないとでも思ってんのか!」
トゥーリは言葉を詰まらせた。その可能性は微塵も考えていなかった。確かに子供の犯罪者は存在しないなんてことはないだろう。
でも、とトゥーリは少年を見た。
「あなた犯罪者なの?」
「ちげぇよ。でも俺が悪いやつだったらどうすんだって言ってんの。もっと警戒心持てよ!」
じゃあいいじゃない、とは言えない雰囲気だった。それにトゥーリもさすがに学習した。トゥーリにとっての疑わない理由というのは、理由にならないのだ。根拠が乏しすぎるらしい。
それならとトゥーリは頭を捻った。
「えっと、あなたはソアニなのよね?」
確認を取ると、少年ははっとして表情が固くなり、口を引き結んだ。
「そうだよ、だから……」
「だったら信用するわ」
「……は?」
「え? だってソアニは誇り高い部族なのよね? 他の人間よりも身体能力が高いのに、その力を争い事に使ったりしなくて、利用されないようにするためにも、定住せずに放浪しているんでしょう? そんな人たちなら悪いことなんてしないはずだわ」
トゥーリとしては、疑わない理由が理由にならないのなら、信用する理由を口にしただけだった。
それなのに少年は唖然としている。かと思えば、急に大声で笑い出した。
「あははははっ、なんっだお前!」
お腹を抱えて笑う少年に、今度はトゥーリが唖然となる。
「はははっははっ、ほんっとうに、世間知らずなんだな!」
あまりにも可笑しそうに、気にしていることを指摘されて、トゥーリはかなり傷ついた。そんなにだろうか。
「くくっ。しょーがねぇなぁ。こんな世間知らず、一人で置いとけないもんな。連れてってやるよ」
少年の声が弾んでいた。見れば彼は満面の笑みを浮かべている。光が弾けてぱっと広がったよう。トゥーリを馬鹿にしているような様子なんて一切ない。
こんな風に、心の中から溢れ出たような明け透けな笑顔を、今まで向けられたことはなかった。
「ほら、ちゃんと悪い奴から守ってやるよ」
笑顔と共にもう一度差し出された手が、自分の目の前にあることに、なぜかトゥーリは恥ずかしくなった。
おずおずと手を取ると、少年は嬉しそうにトゥーリを引っ張って歩き出す。
「お前、名前は?」
「……トゥーリ」
「そうか。俺はユッカ。よろしくな」
「うん。よろしく、ユッカ」
彼の笑顔につられたのだろう。トゥーリは段々と口元を弛めていた。
不安がどこかへ行って、胸の中が温かくなったような気がする。
この日、この時の出会いを忘れることはない。
彼と出会わせるために、彼らが外の世界に出してくれたのだと思えた。
ここからのほんの僅かの時間が、少女にとっての奇跡であり、そして宝物だった。