キャットエンド・デッドウォーク
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「えー、これまで君達の担任を務めてくださっていた米原翔斗先生なんですが、一身上の都合で先週金曜付で教職を離れることとなりました。それに伴って、これまで副担任を努めていた僕、真形仁楽が代わりに担任を務めることになりました。引継いだばかりで君達に迷惑をかけてしまう部分もたくさんあると思いますが、これから卒業までの半年間よろしくお願いします」
少し無理のある笑顔で副担任からそんな挨拶があったのが、二学期始まって二週間目の月曜日。当然、クラスの話題はそのことで持ちきりになる。終わりのホームルームの後で皆は口々に噂を立てる。
「先週の話、やっぱりガチなんじゃね? 職員室で猫の鳴き声が聞こえたっつーやつ」
「え、じゃあマジで猫になったの? ガチニャン楽死?」
「金曜米原チャンいなくて古文自習になっちゃったもんねぇ。猫の鳴き声とタイミング被ってんだからガチなんじゃない?」
「ウチ寂しいー。ニコニコしてて話も聞いてくれて結構好きやったのに」
「分かんないよ。猫置いてってニャン楽死に見せかけてるだけかも」
「ニャン楽死に見せかける意味なくね」
「えー……塾どころじゃないな休みたい。ここ最近多すぎでしょニャン楽死」
「そんなら俺も部活サボりた。でも休んだら多分他上ちゃんに怒られちゃうな」
皆が好き勝手言っているのを余所目に、俺は黙々と自分の帰りの準備を進める。
「カズはどう思うの?」
鞄に落ちていた目線を彼女の顔に遮られた。ぎょっとした。
くりりとした明るく丸い目。艶やかなキューティクルを携えた黒いセミロング。透き通った白い肌は宝石のように美しい。
今日も可愛い。
じゃなくて。
「――分かんねえなあ。でもいつも笑ってる先生だったから、生きるのに疲れてたんじゃないかなあと思ったりもするぞ」
「なるほどねえ。笑顔の裏には苦労が、ってことだね」
「あんちゃんは?」
「私? 私的にはニャン楽死説が濃厚かな。かわいいじゃん」
「意見と理由が噛み合ってねーぞ」
「でも実際そうでしょ。今じゃすっかりメジャー合法死の手段なんだし。本当に死んでるのかは知らないけど――。ね、そろそろ帰ろ」
「ん」
一文字だけ返事を投げ返して、ぺらぺらの鞄を担いだ。
あばよ教室。
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いわゆる〝ニャン楽死〟の手続きは簡単。国内のどこかに存在する請負法人に「猫になりたいです」と電話・メール・ウェブフォームで伝えればいい。その後、段階的に自身や周囲の人間の承認を経たり一定の手続きを踏んだら、その人は猫になれる。
はれて全ての手続きが完了すれば頭に電極を差すかコードだらけのヘルメットを被せられて猫と意識を同期させてもらえる。自我は猫にインストールされ、その人の代わりに意識をインストールされた猫が帰ってくる。自我を失った空っぽの肉体は人知れずどこかで処分してもらえるらしい。
クローン同様生命倫理を崩壊させかねない危険な新技術として世界に迎え入れられた〝意識の同期〟という技術は、国・世界がその倫理性に関して承認に足踏みをしている間にも、非合法的な形で着々と世間に浸透しつつあった。ニャン楽死が僕達みたいな一般学生にすら認知されるようになってから、この国の自殺者数が着々と減っているのがいい証拠だ。
――もっとも、実際は自殺している人が少ないだけで、自殺者とニャン楽死の数を合わせたらきっと今より多いに違いないだろうが。
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五月の温さと寒さの狭間のような夕暮れをあんとゆったりと歩く。
「猫になるってどんな感覚なんだろうね。ニャン楽死って猫になるからご飯とかトイレとかの生活スタイルも発声とかも猫だけど、自我自体は自分なんでしょ?」
あんの言葉にとりあえず首を傾げてみるが、イメージは湧かない。
「でもずっと思ってたんだけどさ、あれ自我ある?」
「え、無いの?」
「今日職員室行ったんだけど、米原ちゃん普通にミルク飲んだり寝たりしてるだけで米原ちゃんどころか、人っぽくなかったんだよな。ただただ猫っつーか。普通意思示そうとするならもっと色々興味示したり鳴いたりしない?」
「じゃあ猫になったら自我らしい自我も消えちゃうってこと?」
あんはぐりんと首をまわしてこっちを見つめる。
「可能性はあるよな。猫と人間の脳のつくりなんか言ってもかなり違うし。残っても自我の破片みたいなんしか残らなくて、みたいな」
「ええ、やだな、それ。死ぬか猫になるか――究極の二択だ」
「俺はある種猫のほうが幸せな気もするけどな」
「人間と猫はどちらが幸せか問題」
あんは両手の人差し指を突き立てて、ふにゃふにゃと上下させた後に鬼の真似をする。
「猫のほうが何も考えず生きられそうじゃん。人間は悩みが多すぎ」
「その猫を羨ましがる体で見下してるのすごい嫌い。猫のもっといいところを論いなよ」
「さっき究極の二択って言ってたのも見下してたことになんねーのかよ」
「なんないよ。猫も人間も最高じゃん」
「へえ」
少しだけ、意外だった。
「大絶賛だな。じゃあ、あんはどっちがいいの?」
「んー、難しいけどねえ。私は猫かな」
「ほう。理由は」
「猫に変わりたい。あと、美味しいご飯を食べながらずっと好きな人の傍で飼ってもらえるから」
「それは――」
野良猫もいるし、殺処分されてしまう猫もいるはずだと言おうとしたけれど言わなかった。少し無粋だと思った。
「でも、人間もかわいいじゃん」
縁石を平均台代わりにしていたあんが、バランスを崩して歩道に降り立った。伸ばしていた両手のやり場を無くして、そっと下ろした。
「それを、私の方を見て言うのかね」
「……おん」
ぱっと、花が咲いた。多分花弁はピンク色で、それほど大きくない。
とても健気で。少しだけ無理をしていて。
触れたら散ってしまいそうな。そんな横顔だった。
「ありがと」
少しだけ照れたように俯いてから、こちらを向いた。
「本当に、ありがと」
少しだけ、その表情は泣いてしまいそうになっている。
言葉を重ねようと思った。
彼女を柔らかく優しく、できるだけ傷つけないように傷つかないように包んでやりたかった。
けれどそれに相応しい、適切な言葉は頭の中を探しても見つからなくて、重ねれば重ねるだけその言葉が重石になるのではと思った。
ましてや、触れるなんて。
電車の音が聞こえる。
夕暮れが、終わろうとしていた。
*
「そろそろ僕が担任してるのにも慣れてくださいね。出席をとりますよー」
皆のおしゃべりを嗜めようとする、真形先生の声はまだ上ずっている。
「今日の欠席者は……蒼城さん意外誰も居ませんね」
「先生、蒼城さん来てるじゃないっすかあ。ほら、窓際」
ひねた男子生徒の一人が窓際の前から二番目の席を指差す。皿の牛乳を舐め続けるロシアンブルーがいる席を。
「田口君、それはただの猫でしょう」
「だって――」
田口の台詞を遮った。机ごと引き倒して、近くの奴に止められるまでに二、三発殴った。田口の前歯が折れたのはとりあえず認識していた。
羽交い絞めにされる俺をよそに、あんは空いているさっさと教室の外に出て行ってしまった。
*
放課後、校舎の隅であんを撫でていた。
帰って来たあんと思しきロシアンブルーは、猫と人間どちらが幸せか問題を話した翌朝の教室で、彼女の席に一匹佇んでいた。
今のところ、この猫があんだという確信は得られていない。手首を見てみたけど毛むくじゃらで傷の跡も見えなかった。
「猫に変わりたい」
そう言っていたあんは、猫になった。
元々不安定な女の子だったから、仕方ないと思う部分はあった。けれど、全てに納得がいったわけではなかった。
いつも何かを考えていて、何を考えているのかは教えてくれなかった。
「うち、来るか?」
「にゃあ」
分からない。
あんの言葉なのか分からない。
あんの意思なのか分からない。
あんの遺志なのか分からない。
分からないけれど。
とりあえず、うちで飯を食わせてやろうと思った。
それが、あんの幸せである事を願って。
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どこか分からない灰色の部屋。冷たくて無機質で窓も無い、人を入れるべきではない箱のような空間。
服なんてとてもじゃないがいえない、ボロ布を纏った少女がいる。灰色の壁の一面から生える簡素な手錠で手足を拘束されている。澱み濁り切ってしまった目はきっとくりりと明るく丸かったろう。何日も風呂に入っていないのかキューティクルを失ったセミロングはぼさぼさだった。肌は煤っぽく元の輝きを失っておりいくつもニキビができたりしまっている。
重く冷たい鉄の扉を開くと、マスクを付けた男が白衣をはためかせながら現れた。少女は歯を見せてしぃぃと猫のように威嚇する。
男の手には手袋と奇怪ににごった緑色の薬液を含んだ注射。
続いて入ってきた特殊部隊のような頃尽くめの様相の男達が、四人がかりで少女を押さえつける。
猫のような少女の叫び。
耳を劈かれる男達は微動だにしない。
煌めく注射針。
ぶすり。
震える。
見開かれる目。
誰も涙など意にも介さない。
所詮は猫なのだから。
いわゆる〝ニャン楽死〟の手続きは簡単。国内のどこかに存在する請負法人に「猫になりたいです」と電話・メール・ウェブフォームで伝えればいい。その後、段階的に自身や周囲の人間の承認を経たり一定の手続きを踏んだら、その人は猫になれる。
はれて全ての手続きが完了すれば頭に電極を差すかコードだらけのヘルメットを被せられて猫と意識を同期させてもらえる。自我は猫にインストールされ、その人の代わりに意識をインストールされた猫が帰ってくる。
猫の意識が入った人の体は法人によって管理される。人体実験のデータが得られる貴重な機関であり、利用者は後を絶たない。
【Forget yourself! Become cats!】