第三花の物語。
私がとっさにつかんだのは、小さな白いお花をたくさん付けている一本でした。菊の花の一種なのでしょうか、小さいながらも一生懸命にピンと花弁を広げている姿に、瑞々しさと愛らしさを感じました。
偽りのない純白は香りすらどこかに置いて来てしまうのかしら。清々しいといえば、それまでだけど……
大抵の花は自分の存在を競いあうように、そしてやっぱり生きていくために香りを放っているものなのに。そういえばカスミソウだってあまり匂わないわね、なんて取りとめもない思いが浮かんでは消えました。
あら、どこからやって来たのかしら。いつの間にか白い小さな花々が寄り集まり、重なり合って一本の道となりました。真っ白な一筋は温かな光を湛えて中空に伸び、暗闇ばかりだった空に明るさを与えました。真白な道はどこまでもどこまでも続いていました。
私は静かに踏み出しました。真綿を踏みしめるとこんな風になるのかしら。足元には小さな花々がふわりと舞い上がります。純白の弾力に優しく包まれた歩みは、それでも確かな一歩として私を空へ空へと導きました。
私は振り返りませんでした。なぜなら……私が一歩を踏み出した、その純白の始まりに彼女が、あの老女がいることが分かっていたからです。彼女はきっと静かな笑みを描いています。私の歩みを見守りながら。
私はそれを知りながらなお、真白な道を進みます。その一歩は彼女の歩み。確たるものは何もないのですが、ただそんな思いは強く、しなやかに私の胸の奥に刻まれたことだけは、ほんとうの真実なのです。
私はいつからそこにいたのでしょう。いや、もうずっと前からここにいたのでしょう。濃密な花々の香りに囲まれて、私はぽつんと立っていました。
「甘い香り、チューベローズですか?」
うっすらと笑顔を浮かべた男性が、店先を飾っている花束を指差しました。乳白色をした小さな花が鈴なりになっています。ねっとりと濃密な南国の香りにひたるその方の笑顔は、限りなく儚げで透明なものでした。
「その通りです。よくご存じですね」
バケツに入った切り花の水を変えながら、私は答えました。その方とは目を合わさずに。小さい時からの夢がかなった、と言えば聞こえはいいのでしょうが、私はお花屋さんで働いています。
抱えるほどの花束を挿した花入れは二、三十、水を取り換え、持ち上げて順に店先に並べてゆきます。華やかさとは無縁の、まったくもっての力仕事です。束となった花々は愛らしい笑顔とはうらはらにずしりと重く、花瓶や鉢は想像した通りにずっしり重く。
でも、お客様の笑顔があればそんな苦労は吹き飛びます、などと私は思ったこともありません。人様とお付き合いするのが大変苦手な性分なので、毎日お客様と顔を合わせるのすら億劫なのです。私には花々の美しさを支える裏方の作業が天職なのです。
その男性は、透き通った笑顔のまま言いました。そして瞳を閉じました。
「海辺で出会ったのです。そう遠くない昔、沖縄の海で」
この花の花言葉を御存じなのかしら。その時、彼は間違いなく蒼い空の広がる沖縄の波打ち際にいました。私は一緒に目をつむりました。初めてお会いした方なのに、なぜかしら。懐かしさが込み上げてきました。
ふと気がつくと、彼は私の顔を覗き込んでいました。私は一緒に目を閉じていたことが急に恥ずかしくなって、あたふたとしてしまいました。
「ありがとう。また、来ます」
そう言い残して、二十歳になった私よりも二、三歳上に見えた彼は立ち去りました。危険な関係。濃密な香りが連想させた、チューベローズの花言葉。私は勝手に思い描いてしまいました。彼が南国の浜辺で出会っていたのは、きっと年上の女性。そして……
見つめる者のなくなったクリーム色の可憐な花が一つ、風に揺れています。彼の思い出の残り香に、ふわりと心が揺れました。
朝の五時、私はいつも一番にお店の扉を開きます。むせかえるような草花の青さと豊潤な甘さと峻烈な香りが互いにぶつかり、混じりあい、そして静かに漂っています。
私は香りの海を歩きます。空間は緩やかに波立って、香りは波となってほの明るく燐光を発しています。それはあたかもオーロラが揺れるように幾重にも幾重にも光の波となって連なってゆくのです。
香りのベールを掻き分けて、私はこの愛しいひと時を進みます。このようにして私の一日は始まり、そして壁際の電燈のスイッチに触れた途端に、あえなく終わってしまうのです。
私は、ずっと待っていました。もちろん、あの彼が再びお店に来ることを。いけないことなのですが、昼に夜にたくさんの夢想を咲かせてしまいました。ああ一度しかお会いしていないというのに。
数日後待ったお昼すぎ、とうとう再び彼が来たのでした。私は心を躍らせました。彼はこの前とは違いますが、けれどもやはり白い花をじっと見つめています。私はその姿を見つめていました。
「これをくださいませんか」
「プレゼントですか? それともご自宅用に?」
なるべく平静を装って言葉を絞り出しました。けれどもやはり胸の内側が漏れ出してしまったようで、声色が揺れてしまいました。
彼の両頬には先日のような脆く儚げな陰はなく、ほんのりとした赤味を浮かべた生命そのものの力強さを投げ掛けていました。
「ええ、ある女性へのプレゼントに」
小菊のような花弁を持つ白い花束を見据え、自ら放った言葉に照れるように頬の赤味を増してゆく彼。手渡されるべき人のことが心をかすめ、私は訳もなく深く落胆しました。
けれども彼はなぜこの真白な花を選んだのかしら。香りもほとんどなくて、他の花の引き立て役として添えられることの多い花なのに。この白いクジャクソウだけの花束をお求めになられた方は、いままで一人もいませんでしたから。
彼は急いでいるのでしょうか。女の方を待たせているのでしょうか。そわそわとした視線がお店に飾られた花々の間を何度も走っては戻りしています。もちろんその合間に、花束をラップでくるみ終わりピンクのリボンを取ろうとする私の姿をちらちらと見ていることにも、気が付いていました。
そんな中、彼は身を屈めました。そして、イチゴのような愛らしい花に赤い頬を寄せたのでした。
「センニチコウですか?」
穏やかな声が胸の内側に染み込みます。私は花束を作る手を止めました。せめて、この時間がもっともっと続けばいいのに。私は頬をイチゴ色に染めた幼子のように心の中で願いました。
「お詳しいのですね。おっしゃる通りセンニチコウです。朱色が鮮やかなこちらはストロベリー・フィールズと呼ばれています」
「この花は刺激的な香りがしますね」
彼は腰を落としたまま真っ赤なセンニチコウの隣に生けられた花束の香りを楽しんでいました。小さな生命を慈しむような仕草。親しい人にしか見せないような、彼の無邪気さに触れたような気がしたのでした。
それと同時に、彼が想いを寄せる女性への嫉妬が沸き起こりました。けれども嫉妬? 彼とは先日の一度しか、それも店先でひと目しかお会いしたことがないのですから、私は何とおこがましいのでしょう。そして、もしそうでないのならば、この止まらぬ想いを生んでしまった神様は何と罪深いのでしょう。
「それも同じセンニチコウでファイヤー・ワークスと呼ばれています。香辛料のようなスパイシーな香りが特徴ですね。ちなみにセンニチコウの花言葉は『不朽』『色褪せぬ愛』です。千日の紅という名前の通り花の時期が長く、切り花にしてもとっても長くもつことがこの花言葉の由来となっています。ドライフラワーにしても鮮やかなままなんですよ……」
いやだ、恥ずかしい。心の浮き立つままに、ついつい余計なことまで話してしまいました。しかも、色褪せなぬ愛だなんて。
目の前の彼も、堰を切ったように言葉を紡いだ私の姿に戸惑っているようです。まっすぐにこちらを見ています。ああ、そんなに見続けないでください。困ってしまいます。私は、あわてて作りかけていたクジャクソウの花束を手に取りました。
しばらくの沈黙を破ったのは、彼の言葉でした。少し気まずい雰囲気だったので、内心助かりました。
「さすがは花屋さん。あなたが花言葉に詳しくて、ほっとしました」
なぜ「ほっと」するのか、なんだか辻褄のあわない彼の言葉に今度は私の方が戸惑いましたが、もう消えてしまいたいくらいの心もとなさだったので、ラッピングの終わったクジャクソウの真白な花束を突き出すように彼に差し出しました。
そして、これで私の仕事は終わりました。短く一方的ではありましたが、彼への想いが匂い立つような時間は、お釣りをお返しする私の指先が温かな彼の掌に触れた瞬間に、静かに終わりを告げたのでした。
花束を受けと取った彼は、ありがとう、の言葉を残して背中を向けました。さよならの時。満開の花々に囲まれあれほど香りと色彩に満ちていたはずの室内は一歩、二歩、彼が歩みをすすめる毎ににその輪郭を失い、滲み、しずんでゆきました。
けれども、彼の足が三歩目を踏み出すことはありませんでした。彼が肩に力を入れるのが見えました。少し離れてしまったはずなのに背中が大きく見えました。そして、彼は先程より強く甲高い声で言いました。
「クジャクソウの花言葉は」
彼が手にするクジャクソウ。ああ、瞬時に彼の言葉の意味するところが分かったのですが、その花言葉を一つずつ、かみしめるように心の中で確かめました。
可憐な人、飾り気のない人、いつも元気、そして、一目ぼれ。
彼は振り返りました。やや強張った笑顔がそこにはありました。真白な花束が、地味で香りもないけれど、純で静かな白が目の前に広がりました。
「受け取ってください。この花を貴方に贈ります」
※ ※
どこまでも続く真白な道の始まりにいたのは、やはり私自身でした。黒髪は美しく束ねられ、純白のドレスに乳白色のレースが揺れています。
あの黒い瞳はそのままに……花々の色彩と香りは重層的に重なりあって、螺旋をなして一筋の道を紡ぎ出します。
どこまでもどこまでも続く光の道を、確かに一歩ずつ、私は前へと、歩き続けます。