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第二花の物語。

 私は反射的に一本の茎をつかみ取った。赤紫をした小ぶりの花がいくつも揺れている。小さいながらも勢いよく花弁を広げた姿は、七五三の紅い振り袖を着てはしゃぐ幼子を思わせた。


 そのような思考をきっぱりと否定するかのように、突如として握られた細く蒼い茎から真っ赤な炎が吹き上がった。不思議と熱さは感じない。けれども、指一本さえ動かすことができなかった。


 炎は渦巻き、膨大な紅蓮が全身を包み込む。朱に紅に照らし出された老女は、決して笑みを崩さない。時を置かずして、深淵なる瞳から吹き出す黒い光はいよいよその濃さを増し、激しく渦巻いた。


 手の内から吹き上げる焔は重層的な螺旋を描きながら枝分かれ、深紅の槍となって胸を腹を穿った。溢れる炎は柱列をなし、生命が脈動するがごとくに蠢き、煌めき、衝突し、新たな紅が砕け、散り、幾重にも幾重にも重なり続く熱紅色のオーロラとなる。


 炎熱の輝ける波々は、やがて、老女が生んだ漆黒の渦に飲み込まれた。すべては蒼穹の彼方へと吸い込まれてゆく。


 ああ、びゅうびゅうと風の音が聞こえる。そして、その風の先には一人の女の影が見えた。


 女は穏やかに、静かに笑みを描いていた。炎の赤も朱も紅もすべてが浄され、素粒子のその先の、暗く、そしてその暗さもない、ただあるだけの世界で、その笑顔だけは、ほんとうに其処にあった。


 気がつけば、暗がりのホテルの一室に立っていた。香辛料を思わせる刺激的な香りが四角い空間を満たしている。カーテンに手を掛ける。さすがは最上階フロアの調度品というべきだろう、生地は緻密なビロードが生む重厚さをしかと伝えた。


 自分の背丈よりもまだ高い一枚ガラスに街の灯が広がる。密集しあるいは疎らに赤や白、黄銅色の光が大気とともに揺らいでいる。この街で暮らす人々が織りなす、慎ましやかな生命の輝きが確かな(ともしび)となって、足元で、静かに輝いていた。


「やっとお会いできました」


 その男は屈ませた身から女王様、と付け加えた。男が発したのはこの一言のみであった。いや、それ以上は言葉にならない声しか上げられなかったというのが真実だろう。


 揺らめく街の燭光が生んだ一つの(かげ)。光彩を隔絶した漆黒の衣装を纏った姿が仁王立ちする。表情は分からない。闇陰の革で全身を包み、見開かれた両眼にはただただ深紅の炎があった。


 双つが丘の深奥より沸きのぼる欲動の切っ先が、隆起する褐色の山の背へと振り下ろされる。黒く紅く渦巻く高揚の先鞭は、歓喜の螺旋を伴って紅色のリズムを刻む。


 中空を往復する焔の鞭は恍として惚として、漏れ出でたる言の葉の欠片は宙に舞い、赤き光の帯を重ねてゆく。足元に伏す尊厳に目を細め、紅の道をじわりなぞると腹底のさらにその奥の存在がぎゅうと締め付けられ、歪み捩れ痺れ失い、深き背徳に感じ入る。


 抱きしめ合うだけで温かく満たされていた二つの魂は、どこまでもどこまでも一つとなることを欲し続けた。やがて柔らかな皮膚は溶け、肉体は輪郭を失い、二つの魂はただひたすらに求め合い、そして混じり合った。たとえ、その形が歪なものであったとしても。


 苦しき日常の縄目から解放された二つの魂は、その激しさとは裏腹に、静かに一つとなる。紅蓮の炎が締め付け、赤銅色の槍先が打擲(ちょうちゃく)しようとも、静かに深く穏やかなる光の存在となって二つの魂の中心へと沈んでゆく。


 やがてすべてが至り、紅蓮と血潮の滲みは今まさに、真白な一つの光となった。


 背後にシャワーの音が聞こえる。私はすべてを脱ぎ去った。そうして、やはり分厚いままの最上階のカーテンを握り締めた。


 足元には夜が更けるにつけ若干数を減らしたものの街の光が、人々の営みの証しが瞬いていた。


 テーブルにぽつんと置かれたガラス瓶の蒼。差し入る光にふわりと浮き上がる一本の花の名は、ファイヤー・ワークス。赤き紫を帯び、秘めたる情熱を爆発するかのごとくに花弁を広げた力強い笑顔が、いくつもこちらに向けられていた。


 そっとカーテンを閉めた。わずかな風が生まれる。いまだ燻る熱量を湛えた刺激的な香りが私の背を熱く、真っすぐに押す。


 私は再び歩き出した。


 ※ ※ 


 蒼穹のその奥にいたのは、やはりあの老女だった。いや、先程と雰囲気がまったく違う。艶やかな髪をなびかせ、薄紫色のスカートが揺れる。


 あの黒い瞳はそのままに……私は彼女と繋がっている。私はそう確信した。私に似ている……ああ、母の姿が思い浮かぶ。もしかすると。


 彼女はすぐさま首を横に振る。そして瞬きもせずこちらを見据え、ゆっくりと唇を動かして言う。


「いい夢は見られたかしら?」


 そうして煙のように消え去った。

 確かな熱量と鋭利な香気を遺して。


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