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第一花の物語。

 反射的につかみ取った花は、乳白色の小さな白い花々が連なった一本だった。その姿は愛らしさの中に白百合のような、しっとりとした気品を感じさせた。そして、夜を纏った蠱惑(こわく)的な女の香りをまた、持ち合わせていた。


 老女の黒目から吹き出した黒き光の奔流は一気にその勢いを増し、瞬く間に巨大な渦を形成した。そして色彩、香り、輪郭などあらゆる存在は暗黒の渦に飲み込みまれ、すべては形を失った。それは、意識でさえも例外ではなかった。


 最初に気が付いたのは幾重にも重なった白いベールだった。そこは風が吹くたびにふわりと揺れる、光あふれる空間だった。ベールと感じたのはカーテン、いや、濃い霧なのかもしれない。


 光があふれる。ビロードの波は匂い立つような乳白色を帯び、その先におぼろげながらも人影が見える。誰かが光の先にいる。よくしっている人物なのような気もするが、定かではない。けれども、柔らかな笑顔を浮かべていることだけは、確信できた。


 甘い香りが辺りを包んでいる。甘美でねっとりと纏わり付くような芳香。この香りはどこかでかいだ事がある。記憶の奥底を探ると、触りたいけれども触れてないけない禁忌の扉にぶつかった。


 濃厚な甘さと熱さ激しさと、そして、それが故の後悔と。紅く白く黒く。純粋さと汚らわしさと。相反する想いが散らす倒錯の火花は幾重にも幾層にも重なり合い、やがてそれらは胸のの奥深くへと沈んでゆく。清濁(せいだく)残滓(ざんし)は雪のように降り積もり、やがて光のベールとなって心の底に漂っていた。


 真白なシーツが乱れ、波打っている。つい先ほどまでの熱い情と愛の交換の余韻を残して。一人して寝返りを打つとほんの端の部分だけではあったが、衣をまとわぬ背中にまだ真新しいままの木綿(コットン)の心地よい刺激を感じた。欲と情の最果てに至りきってなお、純粋がわずかばかり残されていたように感じ入り、ごわつく肌触りにしばし浸った。


 遠くにシャワーの音が聞こえる。


 耳元で囁かれた信じられないほどの暴力的な言の葉の刃。しわがれた低音がなした振動を鼓膜は拒絶し、脳の髄はその先を求めた。歪み、(たわ)み、人としての尊厳を握りつぶすような暴虐が紡がれ、その先に理が形を失うほどの甘美の波が(よじ)れて(きた)った。


 めぐりめぐる指先が静かに確実にその力を増してゆく。その律動はあるべき速度を増し続け、深く、強く、正しさと(まこと)でできた柔らかな鎧に幾筋もの薄桃色の痕を残してゆく。


 齧られるほど林檎は、その心と身体を解き放つ。

 いま衣は脱ぎ棄てられ、それは真白となった。


 南の島でのできごとだった。愛に疲れ、何もかもを失い、一人さまようように訪れた島。観光シーズンを終えた浜辺でたたずんでいると、優しい視線を感じた。


 掛けられた言葉は上辺だけのものであることは、すぐに分かった。ただただ、身体を肉体としてしか見ていないような纏わりつくような眼の色が、蛇の舌のようにちらついているのを、その本人すら隠していないように思えた。


 でもまた、その真赤な舌先の根元に優しさが、いや違う、そこはかとない寂しさが漂っているのを感じ取ってしまってもいた。


 ホテルの自室に二人して戻った。ルームサービスを終えた室内は静かに、すべてが四角く佇んでいた。仄かに花の香りが漂う。四隅を探ると、窓際のテーブルに真っ赤なガラスの一輪挿しがあり、白い花が飾られていた。ねっとりとまとわりつくような、甘く艶のある香り。寝室には似つかわしくないような高揚する香りに身体を包まれ、もはやここにはない心を静かに泳がせる。


 背中でドアのしまる音がした。荒い足音が近づく。私は静かに瞳を閉じ、純白の海にその身を投じた。


 気がつけば彼の姿はすでになく、その後一度も会ったことはない。相変わらず乱れたままの真白なシーツの波を早朝というには(まぶ)しすぎる窓の光が照らし出す。


 もはや掻き乱すもののない白い肌には、やはり薄桃色が残されていた。部屋には鈴なりの乳白色の可憐な花、チューベローズがただ一本、真っ赤な花瓶に挿されていた。


 一糸纏わぬ姿のまま、大きく窓を開け放った。誰もいない砂浜のその向こうに、どこまでも続く空と海の青さが広がっていた。部屋に籠っていた甘く濃密な匂いを大空に解き放つ。南国の太陽は生まれたままの胸と腹部をじりじりと焼き焦がした。


 静かに窓を閉じ、私は在るべきところへと帰った。

 傷跡はやがて消え、それとともに私の心はその在り処を取り戻した。


 私は再び、歩き出す。


 ※ ※ 


 白いビロードの先にいたのは、やはりあの老女だった。いや、先程と雰囲気がまったく異なっている。白髪はすっかり整えられ、華のある生成りの訪問着に身を包んでいた。


 あの黒い瞳はそのままに……きっと私と彼女は繋がっている。そう確信させる何かがあった。ちらりと祖母の姿が思い浮かんだ。もしかすると。


 心の動きを読み取ったかのように彼女は首を横に振った。そして瞬きもせずにこちらを見据え、まったく唇を動かさずに言い放った。


「いい夢は見られたかしら?」


 そうして煙のようにその姿を消した。腐臭と甘い香りを遺して。


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