プロローグ。
花を手折る老人が歩く背中に、微かな芳香が揺れる。
あなたはなぜ花を折るのか。
問い掛けなど意味を持たぬと言わんばかりに、老女はまた花を折る。
びゅうと鳴く風に白髪がさばりと乱れる。
青々とした茎にすばやく手を掛け、ためらいもなく引き千切る。
何本も何本も。
皺くれだった五つの指が、色と光の果実をぐしゃりと束ねてゆく。
表情という言葉さえも置き去りにして。
白髪の背中に腐臭と香気が入り混じる。
あなたは笑顔を見せる。
この世の誰かに手向られるはずの、一輪一輪を手の内から滑り堕としながら。
そうして世界が色彩を取り戻す。
白髪の背中に踏まれ滲んだ色とりどりの葬列を遺して。
※ ※
「花、落としましたよ」
前を歩く老女に、意を決して声を掛けた。白髪を振り乱して、千切った公園の花々を手にふらふらと歩道を進むこの老女は、この世界とは隔たった世界に住まう存在、いうなれば幽鬼という言葉がふさわしく、見るからに怪しげで朧おぼろげな雰囲気をその身に纏っていた。
老女は歩みを進めるたびにポトリ、ポトリと花を地面に落とす。つい先刻まで公園の片隅で生命の彩りを高らかに歌いあげていたものたちが毟り取られ、むげに地面へと撒き散らされてゆく。老女の進む背には、命を踏みにじられた草花の断末魔ともいえる峻烈な青さと香気が入り混じり漂っている。
ずるりと位相のずれた存在。触れてはいけないものに触れてしまったかのような、えもいわれぬ不快感に襲われながらも、花を折る老人の、あまりにもモラルを欠いた行為への至極単純な怒りから思わず声を掛けてしまった次第だ。
老女はぴたりと立ち止まった。
そして驚くべき速度で身を翻し、まさに一息でその顔が眼前に迫った。ざんばらの白髪は一糸も揺らさず、乱さずに。
深く皺が刻み込まれた顔はこの世の色彩を持たない。ただ予想外に瑞々しい、ぱちりとした二重の奥にある黒目がこちらを見据える。
老女はにっこりと満面の笑みを浮かべた。それは禍々しさとまだ穢れを知らぬ童女の笑顔そのものを持ち合わせていた。そして、身構えたこちら側の意表を突いた言葉が次いで出た。
「ありがとう。貴方を待っていたのよ」
どこかで聞いたことのあるような、凛と張りのある声が胸の奥に染み込む。いつの間にか老女の手元の花は残り三本となっていた。声の主がくわりと黒目を見開く。底すら見えぬ漆黒の瞳は私の眼を捉えて離さない。
その瞳から黒い光が流れ出る。まるで意思を持っているかのようにまたたく間に広がった漆黒の光の奔流は二人を包み込み、両者が本来あるべき時と空間の座標を奪い去ってしまった。
呼吸が奪われる。胸が焼け付くような苦しさに襲われる。伸ばした手の先に、老女の白髪と純粋無垢な笑顔がかすんで見える。
この老女は……死神? 遠のく意識の中で二つの文字が浮かぶ。
そして、目の前に三本の花が差し出された。
「さあ、あなたはどれを選ぶのかしら?」