あなたとゴハンの話をしよう
自宅なのに、まったく落ち着かない。いつも通りではないダイニングには、家主である織乃と、もうひとり。
「この家の冷蔵後、すっからかんだな」
休日の朝。十時ごろ目覚めて、ブランチと買い物の為に出かけようかなどと考えながらキッチンに入ったら、そこには侵入者。どうやって家に入ったのだろう。オートロックのマンションなのに。
「食事を作らない人間の典型だ」
失礼な物言いに腹が立つものの、織乃はそれを表情に出さずただにっこりと微笑んだ。冷や汗が出て、足が震えている状況でも。
「コンビニでもスーパーでも、おいしいお弁当やお惣菜が売っていますから。必要ないんです」
ふん、と鼻で笑う声に、思わず唇の端が動く。でも、笑顔は崩さない。崩したら襲われてしまいそうだから。
「三十は過ぎてるようだが、それでもそんな感じか」
「過ぎてません、三十歳ちょうどです」
意地になった返答に、相手はどこか満足したように笑う。なんでこんなことで満足されなくてはいけないのか。
いつもならこんな失礼な男、言い負かせてやるのに。でも今日は恐怖が先立って言い返せない。
「ガキじゃなければうまいもん作ってくれると思ったのに、見当はずれだった。だが仕方ない。お前を選んでしまった以上、俺に変更は許されない」
お前って、あなた何様! と、言いたいが堪える。相手はとてもガタイがいい。それだけなら平気だ。しかし大変毛深い。その色は青く、頭には耳も生えていて、口は飛び出ている。狼そのものの顔で、日本語を話すこの状況。
夢? ファンタジー? 異世界転生? たぶん、どれも違う。ならば現実だ。
「そういうことだ。ホレ、なんか作れ」
「なんかって言われても」
アイランド型のキッチンに立つようにアゴで命じられたが、ここに立つのは飲み物を淹れる時くらいだ。IHクッキングヒーターは二口ついているが、使うのは左側のひとつのみで、今もやかんがひとつおいてあるだけ。キッチンで使うものなんてそれだけだ。フライパンや鍋は買ったまま棚の中に収納されている。
そんな事を言って怒らせたら、赤ずきんちゃんのように食べられてしまうのではないか。水仕事なんてしない白く美しい手で、織乃は気になり始めたほうれい線を無意識になぞった。
とにかく、何か料理を作っておとなしく帰ってもらわなくては。織乃は青の毛並みが美しいこの獣を横目で見る。もしまずいものを出したらそれはそれで危険な気がする。どうしたものか。
「あの、食事の前にあなたのお話を聞かせていただきたいのですが。コーヒーでもいかがですか」
食事を作る以外の事で時間を稼ぎたい、という浅はかな考えがあった。
コーヒーと聞いて、獣は少し首を捻る。
「ほう、飲んだことがないな。飲み物か」
「ホットとアイスがありますし、ミルクを入れたり砂糖を入れたり、お好みで変えられます」
「初物は大歓迎だ。よし、寄越せ。甘くてあたたかい方がいい」
寄越せって! そんな横柄な態度あるか!
怒りはあるものの、織乃は黙ってコーヒーを淹れ始めた。お湯を沸かすため、水道水をヤカンへ勢いよく入れ火にかけた。
続いてはドリッパーの準備。ペーパーフィルターの接着された底の部分を外側、側面の部分を内側に折り、ドリッパーにセットする。二人分のコーヒー粉を入れ、少量のお湯をかけて蒸らす。
下でコーヒーを受けるサーバーにしずくがひとつ、ふたつ落ちる。二十秒ほど蒸らす……のだが、獣はじっと手を顔の前で組み織乃を見ていた。なぜだか怖いより、照れる。
早く、この作業を終わらせてしまいたい。その一心で、どばどばと勢いよくお湯を注ぎ入れた。
「あの、カップだと飲みにくいと思うのでこういうお皿に入れましょうか」
織乃が取り出した平皿を見て、獣は目をむいた。
「人を犬っころと一緒にするな!」
「ひぃぃ、すみません!」
口に出して「ひぃぃ」と言う事が人生で起きるとは思わなかった。食われてしまうかと……。それにしても、犬っころって。
驚きで震えた手で温めたカップに注ぎ、コーヒーを提供する。
「どうぞ」
テーブルの上に砂糖とミルクも用意する。獣はふんふんと鼻をひくつかせた。
「香ばしい匂いだな」
そしてブラックのまま、一口、そっと口に含む。獣の口でどうやってカップから飲むのかと思いきや、器用に口に運んだ。そのすぐあと、顔をしかめた。
「熱い」
低く感情のない声で獣はそう言うと、カップから液体をテーブルの上にこぼした。織乃は止めたり声をあげたりすることができず、黒い液体がテーブルを流れ、床のフローリングに落ちる様を目で追うことしかできなかった。
ぽた、ぽた、ぽた。雫が落ちる音がやけに耳に響く。広がる黒をじっと見つめていると、同じように何かがこぼれ、広がっていく気がした。
捨てたのだ。なんて酷いことを。文句を言おうとした瞬間、長い舌を出して、獣はテーブルの上のコーヒーを舐め始めた。赤い、血のような鮮やかさ。垂れる唾液。黒い染みはあっという間に消えていった。
餓えた獣。恐怖で思わず後ずさる。
一人暮らしなのに、無駄に広い1LDKのマンション。田舎だと、一番狭くてもこのサイズ。逃げなくては、と思ってじりじりと後ずさり、玄関への道筋を横目で確認する。振り返ったらやられる。だが、その様子はすぐに気づかれた。
「外には行かせない」
動きなどお見通しと言わんばかりに、食獣が立ち上がる。
ああ、私は食われるのね……織乃は覚悟を決めた。
「髪の毛、ボッサボサで外に出たら恥ずかしだろ。買い物に行くなら整えてこい」
言われて手をあてると、朝顔を洗う際に頭頂部でおだんごに結っていたままの髪がより乱れ、顔の前にはらはらと黒い毛束が落ちた。
そういう意味で引き留めたのか。気が抜けるやら、まだこちらを油断させて様子を伺おうとしているのやら、判断は出来なかった。でも、この生き物が自分を取って食おうとしているわけではない、となんとなく感じられた。
「いいでしょ別に、いつもこんな感じで外出してる」
「仕事へ行くとき?」
「そうよ、適当にまとめて、化粧もしない。やる気なんてないもの」
もちろん不潔にはならないよう、最低限の身だしなみは整えているつもりだ。
「呆れたな。仕事も家の事も自分の事も面倒くさがるとは。何が楽しくて生きているんだ」
見ず知らずの獣に対する恐怖は、織乃の中から消え去っていたわけじゃない。でも、それだけじゃなく怒りもわいている。何が楽しいかなんて、他人に言われる筋合いはない。怖くても言い返してやる。
「仕事にやる気がなかろうが、生活力がなかろうが、文句言われる筋合いはない。どうして何もかも出来なくちゃいけないの? 笑顔で可愛く、生活力も高く丁寧に過ごさなきゃ女じゃないとでも?」
開き直りともとれる発言に、獣は何も言わない。織乃もそれ以上は何も言わない。ただただ、怒りと共ににらみつけるだけ。
どちらが先に口を開くのか。
視線のぶつかり合いに耐え切れず、織乃が吹き出した。
「なんだよ、何が面白いんだ」
気分を害した、というより、驚いたように先ほどと同じ言葉で問いかける。意味合いは違うが。織乃は座っていたベッドの上で大の字になって天井を眺めた。一見すると汚れのない白さに落ち着きを取り戻す。掃除なんてしたことないから、きっとホコリがついているだろうけれど。天井だからいいや。
「おかしな獣とにらめっこしながら人間のあり方を語っているのかなって思ったら、なんかウケちゃった」
「おかしな獣とは失礼な。俺は食獣だ」
「しょくじゅう?」
「食事に獣で、食獣。一度食べたものは二度と食べられない。同じ人が作ったものもダメだ。そういう、グルメな生き物なんだよ」
なんだそれ、と言いかけるが、どうやら大変な制限だと気が付いた。ヘアゴムをとってほどけた髪を肩に落とす。手グシを入れながら食獣に質問した。
「つまり、大量生産は食べられないんだ」
「そうだ。同じレストラン、同じ工場は一カウントになる。だからこうして、わざわざ人間にメシを作れと頼んでやってる」
頼んでやってる、と偉そうに腕を組みながら言う。
「食べたらどうなるの」
「栄養を吸収しなくなる。体に抗体が出来てしまうからな。人間でいうアレルギーみたいなものだ。俺たちは作った人間の意識も取り込むから」
「へぇー。だから私のような所にひょっこり現れちゃったわけか。人間は食べたりしないの?」
心の中に少しだけある恐怖から質問してみた。すると獣は顔をしかめ一言「まずい」と答えた。食べなくはないんだ……と思うと背筋が凍った。大丈夫、きっと今は食べないでいるはずだと自らを納得させた。
獣の言う理屈は分かった。まるっと食獣の事を理解したとは言えない。だが見た目と違って彼から凶暴さを感じないし、食いしん坊なだけだと思えば恐怖も消える。それどころか、少し可愛く見えてくる。努力すればもふもふの動物に見えなくもない。相当な努力だが。
「そういうことなら、お料理作ろうかな」
コーヒーの事を許そうとは思わないが、たいして悪いとも思っていなさそうで謝らせるのは至難だ。さっさと食事を食べて帰ってもらおう。
ひょこり、とベッドから起き上がり、床に立ち上がる。フローリングの冷たさが素足に響く。もう、秋も深まってきたのだと、織乃はおかしなところで気付く。
「しかし、お前は料理が出来ないと」
「お前じゃない。織乃。出来なくても、誰かの為なら作り甲斐ありそうじゃない。今日は出前でも頼もうと思っていたけど、自炊する。ところで、あなたの名前は?」
食獣は小さく首を傾けると、両手を軽く挙げた。
「人間じゃないんだから必要ない」
名前がない、とさらりと言われた事に、なぜか織乃が傷ついた。名前をもらえない、必要ない獣。
同じ言葉を話すのに何もかもが違う。そうは言っても、彼の事はやはり怖くない。言葉を交わせば、何を目的に生を受けたかなんて関係なくなるのかもしれない。
「家には食料はないから、買い物に行きましょう」
「着替えろよ」
毛玉付きのジャージ、ぼさぼさの頭をじっとりと眺められ、織乃は赤面し食獣を部屋の外に追いやった。
「さっきから何に怒ってるか知らないけど」
部屋の外から食獣の声が聞こえてきた。聞きたくない気持ちとは裏腹に言葉は続いた。
「さっきのコーヒー、うまかったよ」
驚いて、織乃は部屋のドアを勢いよくあけた。食獣は目を見開いて固まる。お構いなしに会話を進めた。
「だって、捨てたじゃない」
食獣はうつむいて「さまそうと思ったらつい……」と言いにくそうに呟いた。
「犬っころと一緒にするな、と言ったくせに。もしかして、いつもそうなの?」
「お行儀が悪いからやらないようにしてたんだよ! ほら、らくちんブラトップのまま外に出るな!」
着替えの途中だった。織乃は少し恥じらいながら部屋の中へ。恥じらいはまだ残っていたと安堵しながら。
着替えると言っても、織乃はおしゃれに無頓着だ。長袖のTシャツとジーパン、櫛を通してひとつにまとめた髪、顔はすっぴんのまま。
「何、じろじろ見ないでもらっていい?」
「食事に興味のないヤツは、自分に頓着がないんだなぁと感心してるんだよ」
それを言われた途端、先ほどまでの気恥ずかしさとは別の羞恥に襲われる。別に迷惑はかけてないし、と心の中で言い訳する。スーパーで買い物をするのに、おしゃれする必要なんてない。
「俺がこの前会った人は、きちんと着物を着付けて、丁寧な和食を作ってくれたっけな」
彼の表情はわかりにくい。けれど、うっとりとその時の事を思い出しているのだろう、ということはわかった。織乃の心の中がどんどんと重たくなって、ぺしゃんこに潰されそうになっていた。たいした話じゃないのだから、と自らを奮い立たせる。
とはいえ、どちらの自分になりたいかと言えば、美しく服を身に着け、掃除の行き届いたキッチンで、おいしい料理を作って振舞ってくれる人だ。それがわかるからこそ、腹立たしくもある。
駅前のスーパーに来たのはいつ以来だろうか。今日は土曜日。昼間から家族連れが賑やかな声を上げていた。ゲームセンターに行こうだとか、あそこのレストランでお昼を食べようとか。とにかく織乃には眩しい世界だ。
幸せの形は人それぞれだろうけれど、この光景を見て「不幸な世界」と思う人はいない。織乃にとっては夢みたいな世界だ。
けれど自分も、親からおもちゃを買ってもらう子供であった事を思い出した。家では笑顔の絶えない母が手料理をテーブルに並べてくれて、明日の学校が憂鬱であると文句を並べながらも、家族揃って食べる美味しい食事でごきげんになったものだ。
「どうした?」
なんでもない、と答えようとしたが、別の声が口からもれた。
「この光景に存在していて、あなた平気なの?」
食獣が買い物をしていてもなんともない世界。そんなわけないだろう。案の定、いともなさげに食獣が答える。
「織乃以外には見えないようになってる」
息を小さく吸い込み、そのまま止めた。回答を聞いたからじゃない。織乃、って呼び捨てにされたから。いい大人がそれでときめいてしまうなんて。認めるのは癪だ、とカートをカラカラと押しながらぶ然とした表情で食材を選ぶ。
何が食べたい、どういうものがいい、と食獣に質問しながら、スマホでレシピを検索する。まともに料理をしたことのない織乃でも失敗せず作れそうなもの。高速で料理を作っているように編集されている動画は、見ていて楽しいがとてもマネできそうになかった。
誰かと一緒に、ゴハンの買い物をする。それだけで充たされたような気持ちになってしまった。こうしていても、残酷に消費した二十代を取り戻せるはずもないのに。
もっとも、消費しながらも簡単に一発逆転で幸福になる事はないと学んだのも二十代だ。努力を忘れればすぐ太る。肌も荒れる。貯金は増えないどころか減る。若さの勢いも衰えていく。
ちらり、と食獣の姿を見上げる。こうしてみると、普通の人間よりだいぶ大きい。身長は二メートルはありそうだ。彼の体にふさわしい量の食材がカゴからカゴへ移されていく。
こうして誰かに料理を作るなんてことは、今日限りだろう。浮足立っていた分、織乃は少しだけ地に足を付けた。
当然ながら重い荷物をひとりで駐車場まで運び、自宅へと戻る。歩いたほうが早かったのではと思いつつ、最近はどこへ行くのも車になってしまった。老い始めた体がよりなまっていくとを感じる。
いつもは加工された姿しか見たことのない食材が、使われないキッチンにこぼれおちそうなほど並んでいた。出来合いのお惣菜はひとつもない。透明なプラスチック容器も、緑のバランもない。こんな買い物、初めてだ。
料理の基本を調べながら、野菜をおぼつかない手つきで切っていく。料理道具は引っ越した時に買い揃えたものを、調味料はイチから買いなおした。
まずは人参。みずみずしく甘い香りがほのかにする。生の人参って、こんな匂いがするのかと、ピーラーで皮を剥きながらしばらく嗅いでしまう。スティック野菜では感じにくい部分だ。
「おいおい、危なっかしいな」
織乃の背後では、おろおろした声の食獣がピーラーや包丁を扱う織乃に重なってくる。
「ちょっと、集中力が切れるから黙って」
「ダメ人間といえども、ケガされたら俺も夢見が悪いんだ」
「食獣も夢を見るのね」
おぼつかない手つきできゅうりを切りながら話していると、ずるり、と包丁が滑る。ひやりとした心を壊すように、大きな音をたててまな板にぶつかっていった。
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫、ほら無傷ですし」
震える声で手を見せると、食獣はほぅ、と息を吐いた。久しぶりに、誰かに心配された気がした。道で転んでも、仕事中体調が悪くても、様子伺いの視線は送られる。でも、心からの気持ちを言葉にしてもらえる事ってなかなかない気がしてきた。嬉しさがこみ上げる。
こういう時、玉ねぎを切ればごまかせるだろうか。そう思って玉ねぎを手に取ったけれど、茶色い薄皮をどの程度剥いていいかわからずに、気が付いたら二回りほど小さくなってしまった。
「あーあ……」
先ほどまでの心配とは違う、呆れた吐息が背後から聞こえてきたおかげで、織乃は再び平常心で料理に向かう。
想像以上に悪戦苦闘してしまう。実際手を動かしてみると思うように切れないし、フライパンも振れない。鍋からはすぐ焦げ付いた臭いがする。あちらで湯が沸けばこちらでレンジの音。火や包丁はただの凶器で油断ならない。
二時間が経過したところで、疲労困憊。だけど、不格好ながらも料理は完成した。お腹もすいたしふらふらする。織乃はキッチン台に手をついて、深く呼吸をした。朝から何も食べていないから空腹もピークだし、きちんとまとめたはずのお団子ヘアも乱れている。
一汁三菜がいい、という食獣からのリクエスト。汁物はほうれん草とパプリカのだし煮。主菜はグリルにお任せした塩鮭。副菜はにんじんしりしりという、細切りにしたにんじんをツナと炒めた彩り鮮やかなものと、ポテトサラダとなった。
自分の手で切ってみて、食材は思うよりも堅いとわかる。調味料をたくさん入れないと味がつかないと知った。既製品で味の濃いものは、どれだけ入れているのだろうとゾッとしてしまうくらい。
料理をダイニングテーブルに並べる。いつもはひとり。さほど親しくない人とふたりで食べる事なんて、最近はなかった。一応、食獣とはいえ中身は男だ。少し緊張してしまう。
色とりどりの食卓。もちろん、コーヒーと食獣の唾液で汚れていた分は拭いた。綺麗になったテーブルの上に、炊き立ての白ご飯を置き完成する。
自分で作ると、その苦労のせいかとても素晴らしい庭園に見えた。人参の大きさにバラツキはあるし、鮭もまっすぐ置かれていない。ほうれん草が器の内側に張り付いてしまっている。盛り付けにも上手い下手があるのだな、と残念に思いつつ、スマホで食卓を撮影した。
「人間って、写真好きだよなぁ」
少し苛立った声。ずいぶんと待たせたのだから当然だろう。いや、無理やり作らせておいて勝手に苛立つというのも納得はできかねるが。織乃はおとなしくスマホを伏せてテーブルの上に置いた。
「人間はバカで、記憶力がないんだから仕方ないんじゃない?」
そういう問題ではないけれど、この場を取り繕うために言った。でも、案外真理かもしれない。一晩寝てしまえば、この鮮やかな世界はどんどんと色褪せると知っている。
「では、どうぞ食べて」
食獣は人間よりも大きく骨ばった手で器用に箸を持つ。青く長い爪が生えているというのに、その所作は美しく見えた。彼はきっと、ナイフとフォークでも美しく持つのだろうと想像は容易い。だし煮に手を付けた食獣は、お椀を持つ手も気品がある。そっと口に入れるその姿に見とれた。
お行儀の悪い、熱くて飲みにくいコーヒーをテーブルの上でぺろぺろしていた姿を見てみたかった。そちらがきっと、本当の姿。
食獣はひとつ頷き、織乃を見つめる。おいしいのかまずいのか、わかりかねる顔だった。
「うん。織乃も食べてみろ」
「いただきます」
いつもより、丁寧に手を合わせて箸をつけた。かつおぶしのだしのみで煮たもの。黄金色のあっさりとした汁から、きらきら輝いているほうれん草を取り出し口に含む。独特のほのかな苦みと共に、ふんわりとしたかつおだしの風味が口と鼻を通り抜けていった。
「おいしい」
思わずこぼれた言葉。食獣は小さく頷き、鮭に手を伸ばした。皮や小骨があるけれど、それを見事な箸使いでよけて、艶のある身を食べる。それに倣い、織乃も鮭に手を付ける。食獣のようにきれいにはがせなかった身を口に入れると、しょっぱさとうま味が舌の上で刺激的に踊る。
何を考えずとも、白いご飯を追うように食べる。刺激がまろやかになり、消えていく。またあの塩分を欲し、箸を伸ばした。
「うまくできなかったら、魚料理は少しくらい手を使ってもいいんだ。骨が口に入ったら余計醜いだろう。いつも綺麗に食べていないのはわかるから無理するな」
見透かされている。恥ずかしくて顔を上げられない。言い返すような口ぶりになる。
「手を使っていいなんて。そういうものなの?」
「前に日本食を作ってくれた人の受け売りだが」
瞬間、口に入れた白米の味がしなくなった。織乃の脳裏には、和服を美しく着付けた年配女性が浮かぶ。
嫉妬、なのだろう。自分が出来ない事をしている素敵な人。会うことはないだろうけれど、劣等感を抱かずにいられない。
ため息を隠すように、ポテトサラダを口に押し込んだ。マヨネーズを入れすぎたのか、混ざりきらず塊となっていたようだ。これはイマイチ。にんじんしりしりにも手を付ける。初めて作ったけれど、甘じょっぱくて、その中でツナの塩味がきいていた。こちらは保存がきくとレシピに書いてあった。
「自分で作ったものはうまいだろう」
「どうだろう。確かに達成感も手伝って美味しい。でもレシピを考えたり、買い物に行ったり、後片付けしたり。作りすぎても保存方法がわからないし、こんな事を毎日している人がいるなんて信じられない」
仕事をしている日はすぐに休みたいし、休日はこんな面倒な事をしないでダラダラしたい。
「でも、この味はお金じゃ買えないし、もう一度食べたければ自分で作るしかないのかな」
曖昧な織乃の言葉に、食獣は鮭の残りを口に入れながら頷いた。
「俺たち食獣が、わざわざ人間に作ってもらう理由はそれだ。レシピ通りに作ったところで、火の加減、ごはんの炊け具合は違う。食材を買う店も、調味料のメーカーの組み合わせも違う。料理を作って食べるって、そういう冒険心も美味しい」
だし煮を飲み干し、きれいに完食した食獣は箸を置き、両手をそっと合わせて「ごちそうさまでした」とあいさつをする。
「あ……はい」
こういう時、なんと返事をしていいのかわからない。もごもごと返事をしながら織乃もお椀を傾けた。
「自炊する楽しみを少しは知ってもらえたら、俺が来た甲斐もある」
大きな瞳で、優しく目を細められると獣相手とはいえドキドキしてしまう。
「何よ、自炊しろってよく聞くけど、やっぱり面倒だよ」
ふん、と大人げなく口を尖らせてしまう。
「面倒なことだ、とわかるだけでもいいんだよ。その面倒なものを食べて生きている。俺も、織乃も」
言われてみると、いつでも買えて、いつでもお腹を満たしてくれるゴハン。ありがたみについてなんて、考えることをやめたのはいつからだろうか。
自分の作ったものが、母に及ばないこともわかった。あの料理には技術だけでなく愛があった。それだけはわかったような気になる。織乃の口に広がる手料理の味。久しぶりに、食べたくなった。自分で作ったものも悪くないけれど。
織乃も完食し、お腹の底から「ごちそうさまでした」と言葉が出た。物足りない気もするが、腹八分目ということで。
「どうだ、自分で作ってみて」
「不思議な味。誰にも真似できないような、今まで食べたことないような」
同じものを作れるかどうかもわからない。なんとなく、自炊をする理由がわかった。
「あなたの言う、同じ人間の作ったものは受け付けないっていう理由がわかった」
「いいもんだろ、たまには」
うん、と素直に頷いた。ただ腹を満たしただけではない。作ったこと、食べたことの充実感で満ち溢れていた。
「俺は嬉しいよ。それじゃ、この辺で帰るとするか」
立ち上がる食獣に対し、帰っちゃうの? と喉元まで出かかった。当たり前だ。同じ人間の作ったものは食べない。食獣はすぐに織乃の元を離れる。それはわかっていた事なのに、彼がいなくなると思うと途端に寂しくなった。
「これからもたくましく一人で生きていくなり、織乃の料理をずっと食べたいって人と人生を共にするなり。どっちにしても人間は大変そうだが、頑張れよ」
気楽な口調で言われるが、余計なお世話である。織乃は鼻をならして腕を組んだ。
「次は、私より料理の上手な人にあたるといいね」
憎まれ口を叩くが、食獣はさして気にも留めない様子で頬をかいた。
「上手かどうかは二の次だ。一生懸命作ってくれたら、それで十分」
思いもよらない言葉に、織乃は言葉を継げなかった。
「じゃあな。美味かったよ」
織乃が何か言う前に、食獣は瞬きをしている隙に消えた。最初から、存在しなかったかのように何も残さず。
最後までむかつく事を言えば別れも辛くないのに。織乃は二人分の食器をまとめる。使われてこなかった、来客用の食器。
ゴハン、作るのも悪くない。会ったことがないのに嫉妬している女性に近づきたい。もう少しだけ、丁寧に生きてみたい。堕落した織乃がそう思えたのは、彼のおかげだ。
食器をシンクの中に入れ、水で浸す。あふれ出ても、蛇口を止める気になれずずっと流れる水を見ていた。
しばらくは、今まで通りだらけて生きよう。一人分にしろ二人分にしろ、きちんとした暮らしを目指すたび、青い獣を思い出してしまうから。
了