もうひとつの貝
ニールから手に入れた貝と真珠を載せた『amato』は静かに海溝を潜行していった。昼間ならまだ光が届くはずの海中も真っ暗闇だった。ときおり十メートルほどの『リュウグウノツカイ』や『ダイオウイカ』がサーチライトの前を横切る。有人定員三名の『amato』だが、彼は『人魚の件』に関してはいつも一人で潜り続けていた。誰も信じるとは思わなかったからだ。もちろんニールにさえ話していない。
クリック音がした、あの獰猛なオルカでさえ襲わない『マッコウクジラ』のオス、しかも二十メートルクラスだ。とっさに海士は潜水の速度を緩めた。しかし既に遅く、クジラはまっすぐ向かってくる。表層から深海までの六千メートルの間で『マッコウクジラ』程恐ろしい生き物は存在しない。鋭い歯で『amato』など一砕きだろう。海士の背筋に一筋の冷汗が流れた。まさに数センチのところでクジラは向きを変えた。彼は大型の生き物が極端に少なくなる超深海にやっと届いた。
「一万メートルまで二時間と八分、作業には一時間は使えるか、さてと」
アンカーロープを切り離し、完全な自由潜航に換えた『amato』は、新しい地震で避けたクレパスに沿って潜航を続けた。新しいクレパスは滞積した『マンガンノジュール』が吸い込まれていてすぐにわかった。ニールの航跡も残っていて、潜航はそれほど難しくはなかった。彼はやがてニールがおりていった海底洞窟を発見した。その中に入ると、真新しい着艦痕と岩の表面に貝を剥ぎ取った痕を見つけた。
「ここか、さあ確かに返しにきたぞ、人魚さん」
彼はそう言うと、ロボットアームで貝を水槽から取り出した。あらかじめ残った貝の殻を加圧水槽の中で開け、ニールが取り出していた緑の真珠も入れていた。ニールが採り出したのは三個、生きていた貝には四つあったが、祖父が言っていたように七つくらいは大丈夫なのだろう。彼はアームを操作してその貝を剥がした痕にぴったり合うように器用に置いた。
そのとき彼は愕然とした。岩から貝を剥ぎ取った痕がまだ二つあったのだ。
「一つは、壊された貝のものに違いないが、貝はもう一つあったのか?」
ニールは嘘をついて、別のルートで貝を売る様な男ではなかった。だが貝を全て剥がしたのは彼以外に考えられない。そして持ち帰ったのは二個だった。
「途中トラブルでもあって、一つは無くしたのかも知れないな」
海士の想像は当たっていた。ニールは貝を持ち帰る途中、『マッコウクジラ』に襲われ、逃げる際に一つを無くしてしまっていた。クジラに深海で体当たりされる恐怖は、一般人には想像も及ばないが同業の海士にはそうに違いないと思った。
「だからあんなに怯えて、二度と真珠には手を出さないと言ったのだろう」
彼は電池の残量を気にしながら注意深く探してみたが、やはり貝は帰り道にもなかった。
幸運な事に帰りにはもうあの『マッコウクジラ』はいなかった。
マリンスノーの降りつもる中『amato』はその役目をようやく終えた。