アマト
彼は先刻からずっとホッキョククジラを追っていた、彼の名前はアマトと言った。小型の二人乗りボートには、彼の父が乗っていた。父は昨日、オルカに片足を持っていかれていた。
「あの時、腕づくでも止めればよかった」
それは一昨日の事だ、彼の父親が急に北極にクジラを仕留めにいくと言い出したのだ。
「親父、何故クジラを狙う。高値の獲物はいくらでもいるのに」
彼は、クジラ用の長いモリを束ねながら、寡黙な父に尋ねた。妹の嫁ぎ先のオロスの漁港に寄って、手に入れたどこまでもまっすぐ飛ぶモリだ。
「アマトお前、人魚を信じるか?」
流氷の間の氷も少しづつ厚くなってきた頃、父が突然彼に聞いた。
「人魚だって!親父、気は確かか?」
父が仕留めようとする巨大なホッキョククジラはすでに百年以上、生きているのに違いない。父はそのクジラを生きるために殺す。しかしそれは金銭のためではなかった。
「人魚はな、俺たちと同じさ、子は乳で育てる。子のほとんどは男さ、海のずっと深いところに棲んでいる。人魚は女さ、決まった数だけしかいない、七つの海を守っている。誰からだと思う?」
「人間どもからだろう」
「そうさ、でもな、守っているのはクジラや魚じゃあないんだ。海それ自体もだが、守っているのは人魚姫。人魚の女王様をずっと守っている。そう俺は人魚に聞いたのさ」
(また、親父のおとぎ話か)
彼は、祖父譲りの夢想家の父が好きだった。
突然、父は真剣な顔で彼の耳元でささやいた。
「マリアナ海溝の人魚はルシナと言った。そのルシナが女王の命をホッキョククジラが狙っているといったんだ。その人魚は、赤い月の夜に海中からこのボートに這い上がってきた。オルカに追われてな、俺が仕留めた」
アマトは父の夢話に付き合っていたが、まだクジラの影ひとつも浮かんでこない。
「詳しい事は知らないが、その人魚はこの地球の陸地全てを、海中に沈めようとするヤツらが海底にいるんだと、そのボスがホッキョククジラだってよ、俺が仕留めたオルカもそいつらの仲間で、ルシナと言う人魚を殺そうとしたそうだ。クジラを殺せるのは、人間だけさ。だから俺は頼まれてやったのさ。つくづく人魚には縁があるな」
(まったく、クジラを仕留めにいくのに、よくもまあこんな話しを考えつくもんだ……)
彼は呆れながらも、人魚というものを想像していた。
「本当なら、お目にかかりたいもんだ」
そう言うアマトに父は笑って言った。
「まあ、俺のように海が好きなら、いつかお前も人魚に逢えるさ」
月明かりに、白く影が動いた。ベルーガだ、海面を跳ね回り、何かから逃げている。
「オルカだ、でかいぞっ!」
「親父の話しも馬鹿にはできんな、一つ腕試しをして見るか」
彼は巨大なオルカに向かった。
「親父、白イルカに人が乗っている。オルカに襲われているんだ」
「アマト、一発で仕留めろよ。行くぞ!」
ボートが進路をオルカに向けた。白イルカはボートに気がつくとこちらに向かって懸命に泳ぎ出した。あちこち傷ついているのか速度が遅い。
「このやろう!」
彼のモリが放たれた。ブスリと背にモリが突き刺さった。新たな敵に獲物をさらわれそうに思ったのか、オルカはモリを突き立てたまま、今度はこっちへ向かってくる。
「アマト、二番モリ」
「おうよ」
落ち着いて狙ったつもりだが、海面から飛び上がり、モリをかわしたオルカがボートを飛び越えて後部の海面に消えた。
「次だ、来るぞ」
父の言う通り、今度は左舷からオルカは飛びかかってきた。充分引きつけて彼はモリを突いた。オルカは喉の奥にモリを突き立てられたまま、ボートを飛び越えて海中に消えた。やがて浮かんできたオルカは再びゆっくりと海中に沈んでいった。
「アマト、それでいいんだ。さあ、救助してやれ」
白イルカにしがみついたままで気を失っていたのは髪の長い娘だった。服はオルカに剥ぎ取られていたのか着ていなかった。彼は両腕を掴みボートに引き上げた。思いのほか軽かったその娘には、両足がなかった。その代わりに大きなひれがあった。
「親父、これが。人魚ってものか?」
彼の問いに答えはなかった。最初のジャンプの時、オルカは父の足を持ち去っていたのだった。
「私のために、こんな事になってしまって……」
人魚が気付くまで、月明かりの中、彼は声をこらえて泣いていた。
「俺はオロスの漁師、アマトだ。お前は人魚なのか?」
「ルシナと言います。私のために命を落とされた方のために全てお話ししましょう」
人魚は、何故オルカに襲われていたかを彼に話した。それは普通なら信じないだろう。しかし彼は父から聞いた話しが本当だったと重ねて思うばかりだった。
(ルシナだって!、親父は本当にこの人魚を知っていたのかも知れない)
ルシナは海底のアガルタに住む『カイリュウ』のメイフたちが、この地球の陸地を全て海中に沈めようと計画しているといい、ホッキョククジラやオルカはそいつらの仲間で、北極海で女王を殺そうとしていると言った。
「私がオルカを引きつけているうちに、女王、エスメラーダ様はなんとか陸に上がられました。ただひれは引き裂かれたので、再び海に入れなくなっていらっしゃるでしょう。このままだとエスメラーダ様は凍え死んでしまう。別のフィンは深海のアガルタにあります。アマト様、どうか一刻も早くエスメラーダ様をお助けください」
ベルーガはアマトのボートをエスメラーダを上げた流氷まで案内した。途中のベルーガの泳ぎはいかにも弱々しく、痛々しかった。
それを見送ったルシナは、集まったイルカに囲まれ、休む間もなく深海に潜っていった。




