第一章 満州海淵
月食の赤い月の夜、ここフィリピン沖の海洋上には国籍不明のトレジャーボートが二隻停泊していた。水深一万メートルまで有人の潜水艇を使い『コバルト・リッチ・クラスト』に含まれる『レアメタル』や『メタン・ハイドレート』を調査している一隻。そしてその『副産物』いわゆる『沈没船の財宝』を横流ししてもらっている『トレジャー・ハンター』の一隻だった。
「持ってきたか?」
「もちろん、ほらよ」
その小さな桐の箱の蓋には、筆でこう書かれていた。
『大正十四年十月三日、マリアナ、満州号』
大正十四年(1925)、マリアナ海溝に向かった日本の測量船「満州号」が発見した『満州海淵』はまもなく『チャレンジャー海淵』と名を変えられてしまう。惜しくも海底の泥の採取に失敗したためだ。そしてそれからおよそ一世紀後、その世界一深い海の底では大いなる闇が動き始めていた。
「こいつを発表しておけば、今でも『満州』の名が残っていたのにな、イノウエ」
男は箱の中身をざっと眺めると、イノウエに返した。
「それより、どうだ同じか? ニール」
「どうかな? 似ているがこれよりも少し大きいかな。こっちへ来な」
船の換気扇は全開だが、独特の腐臭がイノウエの鼻を容赦なく突いた。
「全く、この匂いはたまらねえ。船長、もう二度とこんなもの乗せないでくれよ」
水槽の前で男が鼻を摘まみ、客を連れたニールに文句を言った。やがて現れた水槽内には緑色に輝く巨大な貝があった。匂いは男の足元の貝の死骸からきていた。貝はその殻をバールでこじ開けられていた。その貝は『オオジャコ貝』よりも巨大な『アコヤガイ』。それはのちに『ミドリアコヤガイ』と呼ばれる。
「イノウエ、こんな貝は俺も初めて見つけた。一万メートル以上潜ったのも初めてだが、途中海底の地震でぽっかり開いた洞窟の奥でな。場所はこの下だ、もう俺は二度と行くつもりはないが……」
ニールは思い出したくないほどの何かがあったのだろう。彼に払った金額は数百万ドル、しかしそれっきり彼はこの辺りに来る事はなかった。その後、彼の船の消息はいまだに知れない。