画家アドルフ・ヒトラーが描いた日本陸軍ド式練習機
はい、この絵が、そうです。
二〇世紀ドイツの誇る画家アドルフ・ヒトラー氏の描いた物です。
はい、おっしゃる通り、ヒトラー氏は人物画については高い評価を受けてはいませんが、建造物などの人工の物を描いた絵画については高い評価を受けています。
そして、この絵が第二次世界大戦の開戦前におけるドイツ空軍再建の原動力となった日本陸軍ド式練習機を描いた物です。
ド式練習機は白黒写真は数枚が残されているのですが、カラー写真は無く、ヒトラー氏が描いた絵のみが実際の塗装が、どんな色だったかの研究家の間での手掛かりとなっております。
この絵は、ヒトラー氏が日本を訪問した時に描かれた物ですが、ヒトラー氏が日本を訪問した目的はド式練習機を描くことではありませんでした。
主な目的は日本古来よりの伝統的な建造物を描くことで、主に京都・奈良などの神社仏閣などを描かれ、「金閣寺」を描いた絵画は教科書に載っているので有名ですね。
そのヒトラー氏がド式練習機を描くことになったのは、ヒトラー氏の生涯をご存知の方には退屈でしょうが、説明させていただきます。
第一次世界大戦において、ヒトラー氏はオーストリア人でありましたが、ドイツ軍に志願、伍長まで昇進しましたが、ドイツは敗北、ドイツはヴェルサイユ条約により過酷な賠償金と軍備制限を課せられることとなりました。
軍備制限は戦車・戦艦・潜水艦・軍用機の製造・保有を禁止するもので近代的な軍隊としてのドイツ軍を立ちゆかなくさせるものでした。
兵員数も制限されたドイツ軍には、ヒトラー氏の居場所はありませんでした。
軍を退役したヒトラー氏は一時政治活動に身を投じたりもしましたが、かつての夢であった画家へと再挑戦しました。
最初は描いた絵がなかかな売れず苦しい時期が続きましたが、ヒトラー氏が戦場で見たイギリスやフランスの戦車や戦闘機を描いた物がイギリス人やフランス人から高い評価を受けるようになり、買い取られるようになりました。
かつての敵国人から収入を得ることには内心複雑だったようですが、「敵国に渡った賠償金を少しでもドイツに取り戻すのだ」との言葉をヒトラー氏は残しています。
画家として一応は安定したヒトラー氏でしたが、画家として新しいレベルになるためにドイツを離れて外国に行くことを決意しました。
その目的地となったのが日本だったのです。
ヒトラーは欧州とは異なる文化を体験することで、芸術家としての自分にプラスになると考えだのです。
目的地に日本を選んだ理由は、軍隊時代の知人が日本に行くので便乗したのでした。
この知人は第一次世界大戦のエースパイロットとして有名なヘルマン・ゲーリングでした。
ゲーリングが日本に行くことになったのは、当時のドイツ軍部の計画が理由です。
先ほど言ったように、ヴェルサイユ条約によりドイツは戦車・軍用機などの製造・保有が禁止されました。
ドイツ国内では不可能になった軍事技術の維持・開発のために外国に兵器製造会社を設立したのです。
その外国に選ばれたのが日本でした。
日本とドイツは第一次世界大戦における敵国同士でしたが、アジア・太平洋の植民地を全て失ったドイツには日本と利害が衝突する可能性は少ないと考えられたのです。
日本政府や軍部はドイツの優れた軍事技術が得られるので、提携を結びました。
ドイツは提携する相手にはソビエト連邦も考慮したのですが、ソ連は共産主義国であり、第一次大戦敗北の大きな原因がドイツ国内の共産主義者による民衆扇動によるものと考えられていたので中止されました。
日本に民間の航空機製造企業を設立し、ドイツ人の航空技術者や航空機搭乗員を送り込んだのです。
ゲーリングも、そうして日本に行った一人でした。
さて、ド式練習機の開発経緯について説明しましょう。
1930年代半ばには、ドイツ国内では航空機などの近代兵器を保有して再軍備しようとする意見もありましたが、実現しませんでした。
特に隣国のフランスが第一次大戦の経験からドイツ再軍備には強硬に反対しており、ドイツ国内でも順調な経済活動を阻害すると反対意見が多かったのです。
当時のドイツ議会は小党乱立状態で、大統領であるヒンデンブルクも高齢のため指導力を発揮できませんでした。
誰か強力な党首のいる政党があれば、議会で単独政権となり、再軍備の政治的決断もできたでしょうが、それは有り得なかった歴史に過ぎません。
しかし、ドイツの一部の政治家や軍部は再軍備を何とか実現しようとしていました。
なぜなら、ソ連の脅威が迫っていたからです。
ソ連が軍事力を強大化させ、彼ら自身の見解では「ヨーロッパ人民の帝国主義勢力からの解放」、ヨーロッパ各国から見れば「ロシア人によるヨーロッパの侵略」をしようとしているのは明らかだったからです。
イギリスが主導してソ連の脅威に対抗するために、ヨーロッパ各国が参加する欧州軍事連合条約が結ばれました。
ドイツも軍事連合に参加しましたが再軍備はできないままでした。
軍事連合の主要参加国であるフランスが、やはりドイツの再軍備には反対して、「ドイツは資金提供や補給などの後方支援だけでいい」と主張したからです。
しかし、ドイツにとっては東の隣国のポーランドがソ連軍に突破されれば、自国が侵攻されるので再軍備は急務と考えていました。
特に制空権を獲得するために戦闘機パイロットの大量養成が必要とされました。
ドイツではスポーツ機や輸送機のパイロットを民間で養成して、将来の空軍再建に備えていましたが、明らかに戦闘機と分かる練習機はドイツ国内で運用するのは不可能でした。
そこで、日本に白羽の矢が立ったのです。
まずドイツ政府が日本政府と交渉して、日本にあるドイツ系航空会社が開発した練習機を日本陸軍に採用させました。
それがヒトラー氏が描かれたド式練習機でした。
ド式と言うのはドイツ製の機体という意味です。
ド式練習機は日本陸軍に練習機として書類の上では正式採用されましたが、操縦した日本人パイロットは一人もいません。
同じ頃に、日本に「観光旅行」として訪れるドイツ人が急増しました。
そうです。
観光客として大勢のドイツ人パイロットたちが日本を訪れたのでした。
書類上は日本陸軍に採用されたド式練習機は、すぐに民間に払い下げられ、日本各地の飛行場でドイツ人パイロットが使用しました。
このような複雑な手順を踏んだのは、ドイツ空軍の再建をできるだけ隠すためでした。
ゲーリングも指導のため参加しています。
彼は第一次大戦の後遺症の痛み止めとしてモルヒネを常用していたため、一時期は肥満していて健康も悪化していました。
しかし、知人の菜食主義者のヒトラー氏の誘いにより日本の精進料理を食べるようになると元の健康な体を取り戻しています。
第二次世界大戦は、ソ連のポーランド侵攻により始まりました。
日本から帰国したドイツ人パイロットたちにより、直ちにドイツ空軍は再建され、欧州連合軍によるソ連軍のヨーロッパ侵攻の阻止とソ連邦打倒の原動力の一つとなりました。
ド式練習機はドイツ空軍再建のための重要な機体でしたが、詳しい資料は残されていません。
書類上は日本陸軍に採用され、実際は日本にあるドイツ系航空会社で使われたため、どっちつかずの中途半端な存在だったために資料が散逸してしまったのです。
そのためスペックは不明です。
ド式練習機は日本の空だけを飛んで、ドイツの空を飛んだことは無いので、現在はドイツ人でド式練習機を知っているのは一部のミリタリーマニアだけになっています。
ドイツ人パイロットたちが帰国すると、日本に残されたド式練習機は全てスクラップとして処分されてしまったので機体は一機も残っていません。
この度発見されたヒトラー氏のド式練習機を題材にして描かれたこの絵画は、美術的価値だけでなく歴史資料としても重要な価値を持つと思われます。
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