6 流れた時間が戻るはずもなく
逃げるためにただ夢中で走っていた。
そこに辿り着いたのは偶然か、それとも無意識か。
立ち止まり荒い息を吐き出した場所には見覚えのある風景が広がる。何の変哲もない静かな住宅街。
有信は複雑そうに顔を歪めた。
一番安全な場所に行くつもりが、こんな場所に来てしまうとは何とも皮肉なものだった。
有信は歩調を緩め地元の住人であるかのように歩き始めた。
この街は、かつて自分が明香と子供達と暮らしていた場所だ。
二年半。
そんな短い間だったがかつて無いほどの幸福な時間だった。
古武玲香の影に怯え、隠れ暮らさなければならない事以外は全てが幸福だった。思い出すと泣きたくなるほどの優しい記憶。
身ごもった明香を連れてここで暮らしていた。研究室のあった大学からそれほど離れていない。だからこそ隠れるのは最適だった。まさかこんな近くにいるとは思われないだろう。研究者など特に没頭するあまり他人に無関心になるものも多い。だから二人の住処を見つけたのはタケだけだった。
そのタケも、二人が隠れることに協力的だった。上手く隠れて来られたのは彼の助力があったからだろう。本当に味方をしてくれているのか半信半疑のまま、有信は彼を頼っていた。
『妻を焼き殺した狂炎が』
不意にタケの言葉が蘇る。
再会したばかりの時、彼はそう言って自分を罵った。
あの状況を見れば当然なのだろう。
あの日、炎上した家から出てきたのは双子を抱きかかえた自分だけだった。明香の身体は骨まで灰にするほどの高温の焔で焼かれ、そして何一つ残らなかった。
無論死因どころか遺体すら発見されなかった。
家を焼いたのは自分。
明香を残さなかったのも自分。
殺して平然としている。
そう言われても言い返せなかった。
「……駐車場になっているのか」
有信はかつて自分の住んでいた家があった場所を見て呟くように言った。
十年以上も前のことだ。焼け落ちて無惨な姿になった家をそのまま放っておく訳もないし、更地になった土地を遊ばせておく訳がないだろう。あれだけ酷く燃え上がり、住んでいた一家が急にいなくなってしまった土地だ。もう一度家を建てるよりもいっそ駐車場にした方がいいと判断したのだろう。
面影の残らない無機質なアスファルトが、あれから随分と経ったことを囁いているようだった。
自分の時間はあの日で止まっているというのに。
「……明香」
火傷の跡の残る手の平を握って有信は大切な人の名前を呼ぶ。
戸籍上は他人。
事実上は夫婦。
有信が直接何かをしたわけではない。だが、殺したのは有信だ。
彼女の脳に腫瘍があることに気が付かず、万が一古武玲香に居場所を捕まれるのに怯え彼女を病院に連れて行くのを怠った自分の責任。
兆候はあったのだ。気が付いても良かったのだ。
なのに、自分は『大丈夫』と微笑む彼女を信じ病院に連れて行かなかった。
そして、彼女は倒れた。
思えば無理にでも連れて行けば良かったのだ。気が付かれるのがいやだったのならどこか遠くの病院で保険証がないふりをして検査を受けさせれば良かったのだ。
倒れた彼女を見てもう助からないのを悟った。心音は無く知っている限りの蘇生法を繰り返しても彼女は目を開かなかった。
動揺と混乱で有信は自分の力を暴走させた。
パイロキネシスの力は一瞬で彼女を焼き払い、そして家を燃やした。
思い起こせば、墓石に名前を刻めなくてもせめてきちんと埋葬してやっていればと思う。
あの時はそれしか考えられなかったのだ。
「……」
不意に耳障りな音を聞いて有信は顔を上げる。
遠くから聞こえてくるのはこんな住宅街ではおおよそ不釣り合いな改造されたバイクの音。一つ二つではない。
奇声をあげながら近付いてくる一団。
絡まれては厄介だと、有信は咄嗟に踵を返し歩き始める。
しかし、一団の標的は有信に定まっていた。
蛇行しながら近付いてきたバイクは有信の行く手を阻むように前後ろと挟み込むように停車した。
「おじさん、はっけーん」
派手な格好をした若い男は有信をじっと見つめ、少し狂ったような声を上げた。
有信は男を睨め付ける。
「ケーサツに追われているおじさん。セーギの味方が助けに来たよーん」
「……何だお前達は」
「だからー、セーギの味方だってば」
男は耳障りな高い声で笑う。
薬でもやっているのだろうか。話が通じていなそうな男はけたけたと笑う。年の頃は自分の子供達と同じくらいだろう。だが、随分と印象が違う。
有信を取り囲んだ者たちは皆同じような感じだった。女も混じっている所を見ると悪い遊び仲間なのだろう。相手はこちらを知っている様子だったが、有信には心当たりがない。
「一緒に来て貰うよ。嫌だって言っても無理矢理連れて行くけど」
有信は薄く笑う。
こういう相手とまともに喋るには完膚無きまでに叩けばいい。
「……やれるものならやってみるがいい」
相手の顔が挑発に乗ったのが分かった。
彼が周りに「やれ」と指示するように首を動かしたのが合図だった。
有信は真後ろに来たバイクのタイヤを蹴飛ばしてバランスを崩させる。別の方向から一台のバイクがうねりを上げて突っ込んでくる。
有信の瞳が炎の色を帯びる。
刹那、前輪のタイヤに火がついた。
「な……」
戸惑ったリーダ格の男の眼前に炎が上がった。
驚いてのけぞった男がバイクから転げ落ちる。
有信は身をかがめて男の襟首を掴んで投げ飛ばした。男を助けようとバイクから飛び降りた男たちが有信に近付く。
だが、彼らが近付く前にアスファルトが火を噴いた。
まるで生きているかのような炎は有信を護るように弧を描き男たちの動きを牽制する。
起きあがったリーダの男が口元を拭って有信に襲いかかった。
殴りかかってきた男の腕を軽く受け流すとそのまま肩を押して間接を外す。
「うぁ!?」
予想外の痛みが走ったのだろう。
男は呻いてその場に膝を付いた。
有信は軍属経験のある特殊能力者だ。上手く一対一に持ち込めれば少々ケンカが強い程度の子供に負ける訳がない。
有信は静かに睥睨する。
おそらく彼が一番強かったのだろう。一瞬で彼を戦闘不能に追いやった男を畏怖の目で見ていた。
「まだ、やるか?」
それに答える者はなかった。