4 立ち止まっている訳にはいかない
「てめぇ、今更怖じ気づいたとか言うんじゃねぇよ。俺が一番危険な所に突っ込んでいくんだ、その程度のことでピーピー喚くな」
男はそう低く噛みつくように言った。
携帯電話を耳にあて宗は苛立つようにテーブルを指で叩く。
カフェテラスにいるには随分と場違いな雰囲気のある宗は一見してヤクザ者に見えるのだろう。彼の近くのテーブルには人の姿が無く、道行く者も彼を敬遠するように遠巻きに見ていった。
気にする様子もなく男は電話の相手に唸る。
「あの悪魔の根源を絶たなきゃなにも終わらない。復讐すんだろう? お前も協力しろよ。そもそもお前は何のために何年もそこにいるんだ? 整形までしておいて研究を続けたかったからなんて抜かしたらぶん殴るぞ」
電話の向こうで押し黙った様子がうかがえた。
宗はにぃと笑いを浮かべる。
電話の向こうの男もまたあの悪夢のような研究に携わった人間だ。古武玲香に怯えながらも研究を続けていたような男だ。斎の凶眼の力で記憶を隠蔽されるよりも前に、宗が自分側に引き込んだ。
金を与え、新しい戸籍も準備した。整形までさせた。
そこまでする理由が男にはあった。
正直言えば宗にはあの計画の半分も理解出来ない。ただ玲香と明香の「保護者」として一緒にいただけだ。だからこそ誰よりも冷静にあの研究を見ていたのかも知れない。
そして、少しだけその結果にも興味があった。
今では違う。
研究の内容など興味がない。
得たいものは一つ。
そのためになら何でも出来る。
「宣戦布告はした。奴がどう出るかは知らない。だが、あと少しで手札が全て揃う。終わりまでもう少しなんだ……簡単に諦めるな」
宗は煙草に火を付けた。
昔から愛飲している煙草の煙は、今はほんの少しだけ違う香りが混じる。
もうそれほど時間は賭けられない。
一気に決着を付けるほか無いだろう。だから、今ここで怖じ気づかれて抜けられるのは厄介なのだ。
煙草の煙を吐き出して有信は不意に街頭のテレビを見上げて硬直した。
ニュースが流れている。
病院で起こった事件の事が報道されている。
そこには見覚えのある顔が映っていた。病院前で行われている中継。そこに映り込んだ明弥の姿。
「……な……っ」
一瞬電話をしていることも忘れて叫びそうになる。
報道では職務質問中に男が逃亡したこと、その逃亡した男の名前として「久住有信」という名前があげられていた。
宗は一気に血圧を上げる。
「……っんのバカ!! 面倒起こしやがって!」
宗は携帯に向かって叫ぶ。
「おい、予定前倒しするかもしれねぇ、腹括って待ってろ! すぐかけ直す!」
返事を聞かずに携帯を切ると、すぐに別の場所へと電話をかける。
数コールの後に不機嫌そうな声が聞こえた。
近くに何人もいるのだろう。
がやがやと騒がしい声が聞こえた。
「俺だ。後ろのガキ黙らせろよ」
電話の向こうの声音が変わる。
他の誰かと勘違いをしていたのだろう。慌ててへつらうような声が聞こえ、宗は苦笑いを浮かべる。
この辺のガキだ。
少し前に気まぐれで構ったのだが、その後妙に懐かれてしまった不良連中だ。甘ったれた奴ばかりだが、こういう時には存外に役に立つ。
こちらの一方的で命令のような頼み事も、訝ることなく二つ返事で受けてくれる。多少無茶なことでも……いや、多少無茶な方が連中は喜んでこなす。血の気の多い連中だが、可愛い弟のようなものだ。
「別に構わねぇよ。……ああ、その話なら今度にしてくれ。……そうだ。頼まれてくれるか? 今警察に追われているクソがいる。そいつを連中より早く見つけてくれ。あー、違う違う。痛めつけろと言ってるんじゃない」
少し目を瞑る。
こんな甘いことを言うのは何年振りだろうか。
「助けろ。そいつは死なすには惜しい奴だ」
そう、死なせるには惜しい。
警察に追われているからと言って簡単に死ぬ奴ではない。だが、警察に捕まれば拘束されるだろう。そうなってしまえば厄介だ。
そもそも、報道で偽名ではなく「久住有信」の名前が出された以上、職務質問した警官は初めから有信と分かっていて声をかけてきた可能性がある。
おそらく最近南条斎の事を嗅ぎ回っている刑事連中だ。
そんな連中に捕まるくらいなら、奴は氷の張った湖にだって平気な顔して飛び込むだろう。
そう言う奴だ。
「ああ……そうだな、お前の欲しがってた車、あれくれてやるよ」
向こう側で歓喜に湧く声が聞こえる。
いいんですか、と少年が言う。
「ああ、俺にはもう必要ねぇからな。好きにすりゃいい。……の、代わり、確実にやれ。写真と鍵はすぐに届けさせる。お前等今どこにいる?」
少年の言った場所を記憶する。
いつもの場所だ。
「分かった。少しそこで待ってろ」
宗は電話を切る。
あと少しだ。
大願成就まではあと少し。
煙草の煙を大きく吸い込んで、体中に煙草の煙を循環させる。
それを溜息のように吐き出して、彼は立ち上がった。
不意に差し込むような痛み。
「!」
覚えず蹲った。
息をすることも出来ない程の痛みが肺を締め付ける。
指の間から煙草が零れ、地面に落ち跳ね返った。
宗は奥歯を噛みしめる。
騙しきれない激しい痛み。
痛みが強すぎて咳き込むことさえも出来ない。漏れだしそうな悲鳴は涙に変わって目元に溜まる。
「……っち」
少しだけ痛みが和らぎ宗は舌打ちを漏らす。
転がった煙草の煙を見つめる。
もう、騙しきれない。
だがまだ大丈夫だ。
もう少し持ちこたえられる。
「……あと少しだ」
斎が立ち止まれないのなら、自分もまた立ち止まれない。
立ち止まれないのだ。