10 真実と欺瞞
「そろそろ、来る頃だと思いました」
斎はいつもと変わらない柔らかい微笑みを浮かべながら明弥達を招き入れた。
何故会いに来たのか分かっているという表情だった。
後で思い返して見れば、その日こそが分かれ道だったのだろう。選択があっていたのか間違っていたのかそれは片方の道しか知らない明弥には分からない。だが、後でその選んだ道筋を深く後悔する。
その時の明弥はまだこれから先に起こることはもちろん、選択肢があったことすら気が付いていなかった。
斎に促され、明弥と勇気はソファに座る。向かい合うように斎が座り、少し離れて太一が壁にもたれ掛かった。
ソファに座ると少しあって紅茶が出された。
オレンジの香りのする紅茶だった。
ここに来る途中、トモミの元へ電話をかけた。今までの事を話し、そしてこれから斎に会いに行くと言うと彼女は暫く黙り込んだ。
やがて彼女は詫びるような声でどうしても外せない用事が出来たと言った。
正直、トモミが嘘を言っている事はわかった。用事が出来たとしても、多分そんな大したことではないはずだ。声音で分かってしまうのだ。何故そんな嘘を言ったのか分からなかった。でも、明弥は無理に一緒に行こうとは言えなかった。また連絡をするとだけ告げて電話を切った。
怖いのだろうかと思う。
実際に明弥は斎に話しを聞くのが怖かった。
聞きたいことは沢山ある。知りたいことも、知らなければいけないことも沢山あるのだろう。でも真実を知るのは怖かった。
何故か開けてはいけない箱を目の前にしているようだったのだ。
明弥は出された紅茶に手を付けずに深呼吸だけをした。
「色々、聞きたいことがあるんです」
じっと斎の方を見る。
今日の彼はメガネをかけていた。
表情を誤魔化すつもりなのだろうか。彼の瞳はいつもと変わらず穏やかで優しい色をしていた。
「でも、正直何から聞けばいいのか迷っているんです。お父さんの事を知っているあなたに、僕の事を知っていたあなたに、何を先に聞くべきかとても迷っています」
思っていたよりもすらすらと言葉が出てきた。
はっきり言って考えはまとまっていないし、鼓動はいつもよりも早い。
興奮して大声で喚き散らしてしまうのではと思ったが口から出た言葉も口調も自分で驚くほどに落ち着いていた。
斎は少しだけ驚いているように見えた。
もっと感情的になっていると思ったのだろう。
少し間を置いて彼はゆっくりと頷いた。
「そうですね。なら少し昔の話しからしましょう。鈴華が生まれるより前、私と久住さん……明弥くんのお父さんが研究所にいた時の話しです」
「それは‘Ain’の?」
勇気が問うと斎はちらりと太一を見る。
彼は少し面倒そうに手を振った。
「俺じゃねぇ。俺も話したが、そいつらはその前から知っていた。ユーキは俺より詳しいよ」
頷き勇気は言う。
「名前は言えないけれど、あるところから文章を手にしたんです」
「なるほど。全て破棄したと思っていたんですが……残っていたんですね」
自嘲するような笑い。
「ですが、知っているならば話しは早いです。私たちは超常能力に関する研究をしていました。私も含め、研究に携わる殆どの人間が何らかの特殊能力を備えていました」
明弥は頷く。
彼がどんな能力を持っているかは知らないが、誰がどんな力を持っていても今更驚くような事ではなかった。
明弥だって未だによく分かっていないけれど特別な力をもっているというのだ。
父親だってパイロキネシスト言う能力を持っている。勇気の能力も知っているし、目の前で太一が狼になるのも見ている。
別にもう信じられないような言葉ではなかった。
「‘Ain’の文書にはおそらく人為的に超常能力者を作る研究だと書かれているでしょう。ですが当初は超常能力と言うものが何であるかを科学的に証明するための研究チームでした。少なくとも私はそう思っていました」
超能力が何であるか。
あるいはどうしてごく限られた人間しか持たないのか。
それを紐解く為の研究だった。
「それがどうして‘Ain’になったんですか?」
「リーダーはどう言った条件で超常能力者が生まれるのかを調べるには人為的に実験し生ませた方が早いと考える人でした。遺伝、後天的な何か。あるいはその両方か。それを調べる為には可能性のある状況を人の手で作ることが一番早い。確かに倫理的な面を考えなければその通りです」
同意するように勇気が頷いた。
明弥にも分かる。
研究を進める事だけを考えれば合理的なことだろう。
「……人体実験は倫理的に良くありません。でも、それでも我々は彼女の研究に協力を惜しまなかったんです」
彼女、という言葉に勇気は反応する。
「そのリーダーが古武玲香ですね」
「……、ええ、そうです」
どこか辛そうな表情に見えた。
「焦がれていました。好きと呼ぶものとはまた別の感情だと思います。こう言えばうぬぼれと言われるかもしれませんが、あの当時私は学業という面で自分より優れた人間に会ったことはありませんでした」
それは何となく分かった。
斎は頭のいい人だ。学校の成績もトップクラスだったのだろう。
「彼女は初めて見る本物の天才でした。私は彼女に嫉妬すると同時に憧れもしました。だから彼女の言葉に絶対的なものを感じていたのでしょう」
そこまで言って彼は不意に黙り込む。
続ける言葉を探しているというよりは、考え込んでいるような風情だった。
やがて彼は小さく否定するように頭を振った。
「いいえ、違いますね。それは欺瞞です。私は多分それに興味があったんでしょう」
斎は紅茶を一口飲む。
飲んだと言うよりも唇を濡らしただけのように見えた。
「理性で考えれば酷いことですが、その時は研究者としての好奇心の方がはるかに勝っていた。だから誰もが心でおかしいと感じながらも続けてしまったんです。それがそもそもの間違いでした」