9 眼睛
男の視線とかち合った。
伊東はその顔立ちを確認して言葉を失った。
部屋に入った瞬間嗅いだ強いメンソールの匂いから何か事件に関係のある人物ではないかと疑った。俯いている顔をじっくりと観察するわけにもいかなかったが、少し見えた面差しにどこか覚えが会ったのだ。
世間話のフリをして煙草の銘柄を確認すると、南条太一に渡されたあの煙草と同じ銘柄。そして、手には火傷の傷があった。
その傷から湧きあがった久住有信ではないかという疑惑は男の視線とかち合って確信に変わる。
絶句したのは男の瞳があまりにも警戒心剥き出しの目をしていたからだ。
交わった視線。
そこから火花が散ったかのように熱い。
「すみませんが、名前を教えて頂けませんか?」
「何故?」
「先刻、患者が一人いないと病棟の方で騒いでいたんですよ」
「それが俺だと?」
「違いますか?」
「違う」
「なら、名前を教えて下さい」
「高橋だ」
男は逃れるように外へ急ごうとする。
伊東も立ち上がる。
逃がすわけにはいかない。
「高橋、何さんですか?」
「下の名前も必要なのか? 洋だ」
名乗り慣れている印象を受ける。
だが、直感が囁く。
偽名であると。
「久住有信さんではないですか?」
「違う」
口調は変わらない。
だが声音に明かな変化があった。
動揺したような、あまりにも率直に言われて驚いたような素振り。
彼の手がドアノブに伸ばされる。
伊東の手が引き止めるように男の肩を掴んだ。
男が振り返る。
彼の手が逆に伊東の手を掴み、受け流すように下に下ろされた。
「っ……」
痛みと同時に肩の力が抜けたのを感じた。
肩が脱臼した。
そう分かったが、構ってはいられなかった。伊東は包帯の巻かれた手を男の襟元に伸ばす。
彼は事件の重要参考人。そして今この瞬間、傷害の現行犯として逮捕出来るのだ。
逃がすわけにはいかない。
どん、という衝撃が腹部に走った。
「……うっ」
咄嗟に身構えたが、男の蹴りが伊東の腹部目がけて入った。警察官はこういった時にでも対処出来るようにそれなりの訓練はしている。武道の経験はあったし、それなりの成績も収めていた。
だが、圧倒的とも言える力の差があった。
言ってみれば趣味で格闘技をやっている人間と、プロの格闘家の違い。それだけの差があった。
ドアが開かれた。
「先輩、ライター買って……うわっ!」
男が入ってきた植松を押しのけるように外に飛び出す。
「確保だ! 植松!」
「えっ……はい!」
状況を把握するよりも早く植松が逃げ出す男の上にのしかかった。
きゃあ、と患者が声を上げた。
伊東は脱臼した肩を押さえながら喫煙所の外に出る。
「警察だ! 離れて!」
近付くな、と牽制するように叫ぶ。
手早く脱臼した肩を填め込むと伊東も男を押さえつけるようにのし掛かった。
男の抵抗は尋常なものではなかった。二人がかりで押さえ込もうとしているのにも関わらず的確に急所を狙ってくる攻撃を交わすことがやっとでなかなか押さえ込むことが出来ない。
伊東は脅すような声で諭す。
「子供のことを想うのなら、大人しく……」
「……知った風な口を利くなっ」
深く抉ったような声。
一瞬抵抗が弱まった。
仰向けになった男の目線が天井を彷徨う。
「何を……?」
訝った瞬間、見開かれた男の瞳の中の瞳孔が収縮したのが見てとれた。
ひゅん、と布を切り裂いたような高い音が聞こえた。
刹那、鋭い音で火災報知器が鳴り響く。
緊急消火用のスプリンクラーが勢い良く吹き出した。
「うわっ!」
「!」
驚いて僅か隙が出来た。
それを男は見逃さなかった。
素早い身のこなしで足を振り上げると、斜めに薙ぐように植松を蹴り飛ばす。飛ばされた植松の身体に挟まれるように伊東も転倒した。
「待て!」
駆け出す男の姿を見て伊東は声を荒げた。
植松を押しのけ、立ち上がると男を追って走り出す。一瞬遅れて植松が走り出したような音が聞こえた。
「応援要請を!」
「は、はい!」
伊東は前を行く男を追いかける。
玄関ホールの自動ドアの目前で男の動きが一瞬止まる。
伊東が追いつき男の襟首に手を伸ばす。
振り向き様に男の回し蹴りが伊東の脇腹目がけて繰り出される。片腕でガードし伊東は男の首元を掴んだ。
男が身をかがめる。
伊東の指先から、男の襟が離れる。
足払いをかけられた。
反射的に男の衣服を掴んだ。
ばり、と剥げるような音と供に男のシャツのボタンが引きちぎられる。
「ぐっ!?」
鳩尾に衝撃が走った。
男の繰り出した肘鉄が見事に伊東の鳩尾を捕らえていた。
そのまま吹き飛ばされるようにホールにあった植木に突っ込む。
一瞬呼吸の方法を忘れた。
コンマの瞬間、男と視線が交わる。
(……何だ?)
ごほ、っと咳と同時に呼吸が戻る。
男は既に再び走り出していた。
よろけるように伊東が立ち上がる。酷い吐き気がこみ上げ、その場に崩れる。
「先輩!」
軽く意識が薄れた。
希薄になっていく意識の中で、伊東は視線が交わった瞬間男が見せた詫びるような瞳の意味を考えていた。