3 裏切り
「お懐かしいです、古武さん」
そう言うと男は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
片側だけがつり上がったような微笑みになってしまうのは幼い頃顔面麻痺を経験しているからだと彼の義妹から聞いたことがあった。だが、実際にその笑みには皮肉も含まれていることを斎は知っている。
彼は昔からそう言う人だった。
「懐かしい、ねぇ……。俺はお前等のことは忘れたことなかった。俺の言っている意味わかるか、秀才」
斎は表情を険しくさせた。
普段ならばここまで動揺しなかっただろう。だが誰にでも苦手な相手というものはいる。増してあんな事があった後だ。気が立っているのは自分でも分かった。
奥歯を噛みしめ、なるべく冷静な風を装って斎は笑う。
「聞けば、答えて下さいますか?」
「答えてやるよ。まぁ、真実を話すとはかぎらねぇけどな」
「……何故、私のことを覚えているのですか?」
くっ、と笑って彼は懐から煙草を取り出す。
昔から変わらない銘柄の煙草だ。
「俺にはお前の‘眼’は利かない」
斎は無意識に自分のまぶたに触れた。
「何故」
「わざわざ欠損箇所を教えてやる気にはなれないが……そう、昔の誼だ。邪眼を持っているのはお前だけじゃねぇんだよ、イッキ」
斎の色の薄い瞳に、霜が降りたように冷たさが混じる。
そこには当然あるはずの表情というものがまるで無かった。普段から彼の瞳の色は他の日本人に比べて薄い。注意深く観察をしなければ気が付かないだろうが、左右の眼の色も少し違う。
光彩異色症という病気の一種だ。
そしてその病気以外に、彼の目には特別な力がある。
邪眼。
あるいは凶眼。
その瞳はそう呼ばれている。
「あなたは私がこの目を使うことを予測していた、そう言うことですか」
「備えあれば、という日本語知っているか? 俺は臆病なんでな」
煙草の煙が吐き出される。
斎は邪眼を押さえ込むように眼を閉じた。
最後に古武と会ったあの日、斎は古武に自分たちに関わったことを忘れるようにと暗示をかけた。無論、いくら斎の邪眼が強くとも数年間の記憶を消し去ってしまうのは難しい。だからせめて‘思いだそうとは思わないように、二度と自分に近付かないように’そう暗示をかけて彼と別れたのだ。
今考えればあの時少し妙だった。
彼は疑り深い性格だ。そう言った性格の人が催眠術に掛かりにくいように、邪眼の力が及びにくいという人もいる。当然脳の神経を麻痺させるような力のため、意志の強い相手であると抵抗を受ける。だが、彼はあっさりと邪眼の力を受けた。
そして他の人がそうだったようにまるでその部分の記憶だけを失っただけのように普段と変わらない生活を始めた。
それから暫くして彼は気まぐれを起こしたように完全に消息を絶った。この街にいるかどうか、どこに行ったのかさえも分からなかった。だから彼はもう二度と自分の目の前に現れないだろうと思ったのだ。
もしもあの時あらかじめ別の誰かが先に凶眼を使わせ、暗示にかからないようにと暗示をかけていたならあの全てが演技であったということになる。
「何故、今更ここを訪れたんですか?」
「身の安全の為、頃合いを見計らっていた、というところだ。悪魔共に関わって消されたんじゃつまらないだろう?」
「私はそんなことはしません」
「どうだか」
古武は煙草の煙を吐き出し、灰皿に灰を落とす。
「悪魔の片棒を担いだ形とはいえ、自分の研究の為に、人の命で実験するような奴の言うことだ。信用はならねぇだろ。……なぁ、お前の妹は、誰と、誰の子なんだ?」
血の気が引いた。
そして一気に頭の先まで血が戻ってくる。
斎は今までに無いくらいに激昂し、男を睨み付けた。
「何が目的なんですか!」
男は涼しい顔で言う。
「今、研究止まったら、お前、困るだろう? お前の妹の事はともかく、俺はお前が表に出したくない情報を山のように持っている」
彼の表情に暗くねっとりとしたものが混じる。
言いたいことが分かり、落胆をした。
公表されたくなければ金をよこせと暗に言っているのだ。
かつての仲間であった人間だ。狡猾な面を見え隠れさせるような男だったが、まさか強請までするとは思わなかった。
何年も連絡を絶っていたのは情報を集めていたからなのか、それとも、この研究所の規模が大きくなり強請り取れる金額が高くなるのを待っていたのか。どちらにしても、今のタイミングで来られて斎が否と言えるわけがない。
あと少し。
あと少しで全てが終わるというこの時に。
くく、っと古武は笑う。
「勝手に俺を買いかぶって落胆するな、イッキ。俺は最初からこういう性格だった」
気持ちが悪い。
全てを吐き出してしまいそうだった。
「余計な事は考えるな。お前の眼は利かない。それに、俺に何かあったら俺が何と言っても公表されるように一番信頼出来る奴に預けてある。……それでも、その悪魔の眼、俺にかけてみるか?」
言われて自分が眼を見開いていることに気付く。
この眼は確かに悪魔の眼だ。
人を意のままに操り、そして同じ人間に何度も繰り返し使えば思考能力を奪い、理性を奪い、やがては廃人のようにしてしまう悪魔の眼。
激しい憎しみを持って彼に使えば他の力が及んでいたとしてもこちらが勝るだろう。
だが、それでは何もしないのと同じだ。
完全に根絶しなければ他の誰かに脅され利用されるだけ。自分の方が古武より頭が良いという自信はある。だが、こういう面では彼の方が何枚も上手だ。自分が死んでも相手にいい思いなどさせるつもりはない、そういうことなのだろう。
眼を深く閉じて言い聞かせる。
まだ、研究を続けなければならない理由がある。
斎はにこりと彼に向かって笑う。
「昔の仲間にそんな危険な事は出来ませんよ」
「はん、お前が利口で助かったぜ」
言って彼はまだ長い煙草を灰皿の上でもみ消した。
「お利口なお前にご褒美をやろう」
「褒美ですか?」
「そうだ。お前、アリの奴が本当は生きていると思ったことはねぇか?」
ぎくり、とする。
アリ、彼がそう呼ぶのは一人しか知らない。久住有信のことだ。
死んだと思っていた。自殺したのだと思っていた。
だが、このところ彼の姿が見え隠れしていた。
生きているかも知れない。
そう思ったことは一度や二度ではない。
「生きて……いるんですか?」
「ああ、生きてる。居場所も知ってる。何で奴が身を隠しているか、お利口さんなお前は分かるだろう。あいつはお前の暗示に掛かる前に姿を消しているんだからなぁ?」
古武は身を乗り出してテーブルを叩く。
「知りたくねぇか、あいつの居場所」