7 狼の爪
死ぬ。
そう思った。
目を閉じている暇さえなかった。
刃物のような爪が顔面に向けて振り下ろされそうになっていた。
「……!?」
だが、その爪は一向に明弥の顔面に落ちてこなかった。
赤毛の狼は、まるで襲うか否かを葛藤しているように悲痛な呻り声を上げている。その姿が、まるで人のようなシルエットを帯びて見えた。
犬のような形のはずなのに、四つん這いになった人のような形が見える。
一瞬だった。
けれど、確かに赤毛の獣の顔が、人の顔に見えた。
苦しむような、男の顔。
(……何?)
がつん、と音がして不意に身体に掛かっていた重みが消える。
「怪我はないか!」
男に助け起こされ、明弥は椅子で殴られた様子の赤い狼の姿を見た。
明弥は顔を上げて男の方を見る。
四十代後半くらいの目つきの鋭い男だった。格闘技の心得のある人だろうか。スーツを着ていたが、その上からでも男の筋肉が感じ取れた。
「君は、早く逃げなさい」
「だけど……」
「若い子が、こんなところで命を落とすもじゃない。おじさんは警官だ。少しはこういうのにも慣れている」
男は冷静そうにして言った。
先刻、自分が政志に取ったのと同じ態度。
だから分かる。
こんな事に、慣れている人なんていない。
狼が起きあがった。
意識をはっきりさせようと首を振っている。
「逃げなさい」
明弥は首を振った。
駄目だ。
あれは、どんなに逃げたって明弥を襲ってくる。
今ここで、この刑事さんに対処を任せたとしても、変わらないだろう。犠牲者を出すなら、自分だけでいい。
「……狙いは、僕だ」
「……何?」
男が聞き返す。
瞬間、狼が跳ねた。
明弥は警官を押しやって跳ねた下方をくぐり抜けるように狼に向かって走った。いままで明弥のいた場所に爪をめり込ませた狼は踵を返し、再び明弥の方に向かって走り出す。
落ちていたパラソルの柄を掴んだ。
重く、持ち上げるのがやっとだったがそれを何とか引き上げると、遠心力で大きく振れた。青緑色の傘の部分が狼を巻き込み、パラソル自体の重さで横に飛ばされた。
遠巻きで見ていた群衆から歓声のようなものが上がる。
(まだだ)
明弥は急いで人の少ない方に向かって走り出した。
まだ、狼が気絶したわけではないだろう。
多分再び起きあがって自分の方に襲いかかってくる。
兄ちゃん、と遠くから政志の声が聞こえる。
君、と呼び止める警官の声が聞こえる。
どちらも無視して明弥は走った。
振り向かず、狼も走り出したのが分かった。
足の速さではいつも後ろから数えられる所にいる明弥だ。動物の足の方がずっと早い。追いつかれるのは一瞬だろう。
だけど、少しでも人から離れたかった。
明弥の進行方向の道に、車が止まった。
車の後部座席のドアが開かれ、中から見知らぬ男が叫ぶ。
「乗りなさい!」
本当は乗るつもりなど無かった。
乗れば車の人に迷惑がかかる。
だが、明弥は見えない力に押された。まるで引き込まれるように、転がり込むように車に飛び乗った。
ドアが半開きのまま車が発進する。
獣が追ってきていた。
「坂上、人気のない方向へ」
「心得ております」
運転手が答えた。
明弥は自分を招き入れた男を見る。
微笑を浮かべた、穏和で落ち着いた感じの男だった。二十代から四十代、どの年代にも見える不思議な男。
「あのっ」
声をかけると男は頷く。
「大丈夫、分かっています」
何を分かっていると言うのだろうか。
有無を言わせないような笑顔で言われてしまえば黙るより他が無かった。
猛スピードで走る車のバックミラーに、赤い影が映る。
明弥は振り返って確認する。
「追いかけてくる」
「気に入られましたね」
男は楽しげに言う。
明弥は男を見返した。
「あなたは、狙われています。人から離れるという判断は賢明でした。おかげで彼を人から離す事ができます」
彼、と小さく呟く。
まるで狼が人であるような言い方だ。
確かに明弥は一瞬、あの狼が人間の男のように見えた。だが、狼男でもあるまいし、本当にそんなことがあるのだろうか。
「あなたは、あの狼が何なのか知っているんですか?」
問うと男は笑顔を崩さず答える。
「はい、知っています」
「一体あれは……」
「説明は後にしましょう。今は、我々は対処する術を知っているとだけ申し上げておきます。大丈夫、何も心配することはありませんよ」
心配することはないと言われても安心出来るわけがない。
明弥は車の速度計を見る。それはもう既に100キロのスピードを超している。なのに、後ろを追いかけてくる赤い姿は消えない。
男はバックミラー越しにその姿を見つめながら落ち着き払った様子で腕組みをしている。
彼は高級そうなスーツを着ていた。坂上と呼ばれた運転手の着ている服も安そうには見えない。車種は分からないが、内装を見る分には車も随分と高そうだ。
この人達は一体何者なのだろうか。
あの狼の対処の方法を知っていると言ったが、一体どんな関係があるのだろう。
普通、街の中に獣がいたとして考えるのは熊や狸のように山から下りてきたか、あるいは動物園から逃げ出したか。
どう考えてもこの人達は動物園の関係者には見えない。むしろ、禁止されている動物を密輸しているような人達に見える。まるで逃げ出した商品を捕獲しようとしているような。
(密輸?)
明弥は自分の考えに違和感を覚えた。
仮に彼らが密輸をしているとして、商品である動物を「彼」と呼ぶだろうか。それに、逃げ出したものを捕獲するのに、あんな風に目立つ行動を取るだろうか。
分からない。
けれど、この人達は、人を巻き込まないように遠くに逃げようとしている。
明弥を助けようとしてくれている。
悪い人たちのようには思えなかった。
「!」
どん、と何かが車の上部に落ちてきたような音が響く。
ぎしりと車体が軋んだ音を立てた。