2 過去を伝える手紙
手紙を書いた人物、林明香が自分の母親ではないのかと思い出したのは、その手紙の中に父親の名前を見つけるよりも前の話だった。
親子というのは必ずしも似るものではない。他人でも育った環境が似ていれば多少性格も似てくるものだ。けれど、手紙の中で見せる彼女の感情は明弥のそれによく似ていた。正直、他人という気がしなかったのだ。
あのコインロッカーに入っていた手紙はその日勇気の家に泊まり込んで読み込んだ。トモミはあまり遅くなると心配されるからと早々に引き上げたが、明弥は家に帰る気にもなれなかった。
次の日が休みだからここに泊まっていくと連絡を入れた時に怒られそうになったが、相手が勇気だと知ると二つ返事で泊まり込みを認めてくれた。勇気が「警察官の息子」と言うことを知っているからだろう。
それから明弥はずっと手紙を読み耽っていた。
勇気の方は英文で書かれた文章の方の翻訳をしていた。
内容は専門的な話なのだと勇気は言った。勇気の英語の成績は総代を務めるだけあって学年でも一、二位を争う成績だ。その英語力を持ってしても、その英文は難しいのだという。例え英語が読めたとしても、内容が内容だけに理解がしにくいともぼやいていた。
そうして勇気が英訳を進め、傍らで明弥が手紙を確認していた。お互いに気が付いた時には朝になっていた。
暑中見舞いや年賀状のハガキを含めると軽く百通は越える手紙。消印が消えかけていたり、保存状態が悪いために読めなくなった部分を外しても一ヶ月に一通か二通送られていたのが分かった。中には二十年以上前の消印の者もあり、一番新しいのでも十七年前のものだった。
手紙は林明香が兄と慕う「古武宣」に宛てられたものだ。
始めこの宣という人物が「タケおじさん」だと思ったが、読み進めると少し印象が違った。どちらかというと手紙の途中で名前が出てくる「宗」という人物の方が彼らしい気がしたのだ。
内容はとりとめもないこと。
日記を盗み読みしてしまったかのような気恥ずかしさを時々感じるほどに、同年代の女の子の手紙だった。
生活にまだ慣れない、姉とケンカした、美味しい店を見つけた、今度遊びに行く、今度はこっちに遊びに来て、好きな人が出来た。
そんな普通の事ばかりが書いてあったのだ。
「……その好きな人というのが、久住有信か」
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら勇気は言う。
同じようにコーヒーを飲みながら明弥は答えた。
「うん。それでこの宗って人、この人がタケおじさんなんだって思う」
「そうか。じゃあ友人というのはあながち間違いじゃなかったんだな」
もう一度明弥は頷いた。
宗は宣の兄のようだ。明香はそのどちらも兄と慕っている。そしてもう一人、玲香という人物を姉と呼んでいた。話の内容から察すれば玲香が明香を連れて長野から出てくる時に保護者として付いてきたのが宗。実家に残って家を守っているのが宣だ。
玲香が長野から出たのは「研究の為」と書いてあった。元々玲香は途轍もなく頭の良い人物だったようだ。それが買われてどこかの大学教授が一緒に研究をしようと持ちかけて来たようだ。有信はその教授の手伝いをしている人なのだと書いてあった。
「玲香、か。……コタケレイカ」
彼の声音に深い意味を感じた明弥は彼を見つめる。
「知っているの?」
「ああ……俺の知り合いが前にその名前を知っているかと聞いた事があったから覚えていただけなんだ。こんな風にもう一度出くわすとは思わなかった」
「僕は鈴華ちゃん思い出したよ」
俺もだ、と勇気は頷く。
勇気は単純にレイカという同じ音を持った名前で連想しただけだろう。同じ名前の人間なんていくらでもいる。よほど珍しい名前か、珍しい読み方をする訳でなければ日本中捜せば同姓同名というのも結構いるだろう。
明弥が玲香と鈴華を関連づけてしまったのはそれだけじゃないのだ。
少し迷って明弥は勇気に読み終わった手紙のうちの一通を渡す。これだけ頻繁に名前が上がってくるのだから隠しておいても仕方がない。
「読んでみて。知っている名前がもう一つあるんだ」
「……知っている名前?」
勇気は手紙を開いて目を落とす。
初めは字面を追っているだけの目線だったが、或る場所を目にした瞬間、その瞳が見開かれたのが分かった。
「南条……斎」
そう、手紙には斎の名前もあった。
古武玲香のように誘われて来た研究員の一人という話だ。玲香はあまり人に感心を示すような人物では無かったけれど、斎に対しては妙に感心を寄せていたという話の内容だ。今と印象が少し違う。それでも、やはりあの斎である気がした。
「同じ名前の別人じゃなかったら、斎さん、初めから俺たちのこと知っていたって事にならないかな」
泣きたいのか笑いたいのか少し分からなかった。
多分、ショックだった。
今の明弥の親は有信ではない。だから、本当に知らなかったのかも知れないし、事情があって話せなかったのかも知れない。そう考えるとそんなにショックではない。
なのに何故か胸の辺りがざわつくような嫌な感じがした。
「お前な」
不意に呆れたような息が聞こえた。
勇気は髪を掻き上げる。
「気になるなら直接聞けば良いことだろう?」
「え……直接って」
「この手紙持っていけばいくら何でも知らないとは言いにくい。直接会って聞いてみた方が早いんじゃないか」
むしろ、反対されると思っていた。
いつも慎重に動こうとする勇気のことだ。斎に会って直接話をしたいと言っても行かない方がいい、もう少し手札を揃えてからと渋ると思っていたのだ。だが、意外なことに彼の方から会えばいいと言った。
確かに直接話した方が疑問も解ける。
あれこれと後ろ向きに考えているのは自分らしくもない。
明弥はきっと表情を引き締める。
「うん、斎さんにあって話を聞いてみるよ」
「俺も行くよ。俺も聞きたいことあるが……その前に」
ちらりと勇気が玄関の方を見る。
つられて明弥もそちらの方を向く。
遠くからバイクのエンジン音が聞こえて来ていた。エンジン音は迷うことなくこちらに向かってきているような音だった。やがて音が大きくなり、不意に止まった。
ここのすぐ近くで止まったというような印象だった。
「何?」
「来客だ」
彼の言葉通り、ゴンゴンとドアを叩くような音が聞こえた。
勇気は黙ったまま玄関の戸を開く。
玄関先に立った人物は、勇気を見、そして明弥を見ると人懐っこい笑顔を浮かべた。
「やっぱここにいたな、明弥」
「太一? 何で?」
「何しに来た?」
勇気が冷静な口調で問う。
言葉はきつく聞こえたが警戒している訳でも、咎めている訳でもない。それを分かっているのか太一はにいと笑って部屋の中へと入ってくる。
「届け物だよ」
「届け物?」
「……おい、話があるんだろ、遠慮せず入れよ。俺のウチじゃねーけど」
「う……うん」
戸惑ったような声。
顔を見ずとも誰だか分かった。
「マサ?」
太一の巨体に隠れるように、モジモジとした様子の弟がそこに立っていた。