1 懐かしむ余裕もなく
研究所の受付というよりは、企業の受付という印象が近い。事実製薬会社でもあるのだから、それは当然なのだろう。
まだ、彼がここにいた頃はもう少し小さな所だった。大学の研究室の延長線上にあるという感じで、企業から投資を受け薬品を開発しているようなところであったのにも関わらず、ここまで成長させるのはさすが南条の家が絡んだだけの事がある。
南条家は歴史の古い家だ。それが今の世になっても財産を食い潰さず存続していると言うことはそれだけの才覚は代々あると言うことだ。
皮肉そうに笑い、古武宗はずかずかと遠慮のない足取りでインフォに向かうと、カウンターを叩くように肘を突いて見せた。
受付の女が戸惑ったようにしながらもマニュアル通りの口調で声をかける。それを遮るように宗は唸った。
「南条斎を出せ」
「アポイントメントの無い方は……」
「俺は短気だ。南条を出すか、部屋まで案内しろ」
「済みませんが所長は只今来客中でして……」
ぎろりと鋭い視線を女に向ける。
人を殺していそうな恐ろしい目つきで睨まれて女は息を飲む。
「見え透いた嘘は結構だ。警報ボタンから手を離せ。警備を呼ぶのも時間の無駄になる。すぐにあいつに連絡をしろ。古武が来たと言えば分かる。……余計な真似をすれば女にでも容赦はしない」
女はそろりと通報のボタンから手を外す。
彼の手には武器のようなものは握られていない。それでも従わなければ殺されそうな気がしたのだ。静かな口調ではあったが、得体の知れない迫力が男にはあった。
ガタガタ震える手で、受付の女は所長室へ直通の内線をかける。
震える声で女は人が訪ねて来たことを伝える。
様子を見守っていた宗は、突然カウンターに身を乗り出してその電話機を奪う。
「……よう、親友、元気だったか」
『古武さ……ん? 本当にあなたなんですか?』
受話器の向こうで掠れた声が聞こえる。
受付の女を睨みながら宗は笑った。
「何だ、殺し損ねた化け物に会ったような声だな。生憎と、俺はまだ五体満足だ。……来いよ、それともお前の特等席に案内してくれるのか?」
『……』
何か言いかけて、息を吸い込みそして再び黙り込んだような音が聞こえた。
長い間会っていないが、その表情は見なくても分かる。
何とも形容しがたい表情を浮かべているはずだ。死者にでもあったようなそんな表情。
当然だ。
宗は斎にとって過去の亡霊でしかない。
忘れたいはずの記憶。消し去りたいはずの過去。
来るはずもない、一生関わるはずもない男なのだ。
もう一度、息を飲む音が聞こえた。
一気に表情を失い、冷静そうな表情に戻っているのが受話器越しに分かった。
頭の回転が速く、そして切り替えも早い。敵としては一番厄介な相手なのだ、と宗は思う。
『……お招きします。案内をさせますので受付の人と変わって下さい』
女に見せつけるようににぃっと笑う。
そしてそのまま受話器を女の方に押しつけた。
受付の女はおそるおそるという風に宗の様子を窺いながら電話の向こうの斎と言葉を交わす。
万一のことは無いだろう。
頭のいい斎のことだ。宗がどれだけの下準備をしてここを訪れたのかを考えると余計な工作はできないはずだ。少なくとも、今回は様子を窺いに出てくる。
それは予測通りだった。
案内の為に出てきた坂上は事務的に挨拶をし、直通のエレベータに乗るように示した。
宗が坂上に会うのは初めてではない。飲みに行くほどの仲でも無かったが、幾度と無く親しげな会話を交わしたことはある。
エレベータの壁に寄りかかって宗は口の片側をつり上げた。
「あんたにしてみりゃ、俺は‘斎様の敵’でしかねぇのか?」
「お懐かしく思います、古武様。今の時期でなければあなたを歓迎しておりました」
「今の時期?」
ちらりと宗は笑う。
口を滑らせたという風ではない。聞いて欲しかったのだという口ぶりだった。
坂上は宗に背を向けたままエレベータの階数を表示しているパネルを見つめていた。
「私は研究員ではありませんから口を挟む権利などありません。あなたがあの方にどんな感情を抱いていたとしても、あの方が良しとするなら私に反対する権利などありません」
「相変わらず斎様大事か」
「そうです。ですから私から申し上げられることは一つです」
エレベータが最上階まで上がりきったのと、彼が言葉を発したのはほぼ同時だった。
「お気を付け下さいませ」
「ん?」
問い返すと同時にドアが開く。
それ以上答える気が無いという素振りで坂上はエレベータの外を示す。
出迎えにスーツ姿の男が立っていた。
懐かしむより前に心がざわめいた。髪を掴んで引きずり回したい衝動に駆られる。それを奥歯で抑えつけて、煙草の煙を吐き出すかのようにゆっくりと息を吐いた。
出会った頃はトゲばかりの目立つ子供だった。そのトゲが少しずつ抜け落ちていく様を見ている。そこまで甘いものでないことも知っているけれど、明香が失踪するまでは斎にとっても宗にとっても優しい日々だった。
その束の間とも言える平穏をそれぞれが少しずつ壊していった。
激情のような甘美な憎悪も今は少し薄れている。
「少し老けたな」
「最期に会ったのは十年くらい前の話ですからね。……あなたは、あまりお変わらないようです」
そう言って斎は柔和な表情を浮かべた。
拍子抜けするほど毒のない顔。だがその表情の奥に、かつて残したトゲの冷たい切っ先がまだ残っているような気がしていた。
そう、それはおそらく狂気にも似た感情。
「この十年、お前の事を思い出さない日はなかった」
「それは……嬉しいお言葉ですね」
「会えて嬉しいよ、南条。……ああ、昔みてぇに名前で呼んだ方が懐かしいか、なぁ、イッキ?」
脅すように睨み見る。
それに動じる様子すら見せない男は、笑顔の表情を崩さないまま言った。
「そうですね、今私をそう呼ぶのは弟くらいのものです」
はん、と鼻先で笑う。
「弟? ありゃお前よりずっと年が上だろう。それに、飼い犬の間違いじゃねぇのかよ」
「太一は私の弟です」
彼はきっぱりと言い切った。
やはり、見え見えの挑発には乗ってこない。
有信の方が感情的で従順で扱いやすい。
だからこの男が嫌いなのだと宗は表情を険しくする。
斎は柔らかく笑ってエレベータの向かい側にあるドアの方を示して言った。
「部屋の中へどうぞ。何のおもてなしも出来ませんが、歓迎します」