10 百合の花
扉を叩く音で目が覚めた。
この場所は普通の住宅ではなく倉庫や備品庫に使っていた場所を改装したような部屋のため、ここを訪れる者も少ない。この場所に誰かが居るとも思わないだろう。
有信は物音を立てないようにして身を低くする。
初めはタケが戻ったのかとも思ったが、足音が違った。それに、鍵を持っている彼がドアを叩くような真似はしない。万が一踏みこまれてもすぐに居場所が特定出来ないように物陰に潜んだ。
がちゃん、とゆっくりサムターンが動いた。
鍵を使ったと言うよりはピンや何かでこじ開けたというような動き。
有信は手近にあった布きれで口元を覆い少し大きなライターをポケットの中に入れる。ゆっくりとドア付近に向かって移動する。
扉が開き人が入ってきた。
小柄な影。
女だろうか。部屋には小さな窓こそあるが、昼でも薄暗い。そのため顔がよく見えなかった。
影は何かを探すように壁際を探っていた。
その手が電気のスイッチに触れそうになった瞬間、有信の片手が逆手で口元を覆い腹部にポケットに入ったままのライターを押し当てる。そのまま壁際に押しつけ、足で払ってドアを閉めた。
「!」
驚いたように彼女は目を見開く。
女だった。
全身を黒で統一したような女。彼女は息を飲んだが、声を上げなかった。怯えるようすも硬直する様子もなく、暗がりにようやく慣れ始めた目線をこちらに向けていた。
「騒ぐな。大声を上げたら殺す、不審な真似をしたら殺す。質問に簡潔に答えろ」
低く唸るように言うと彼女は微かに頷いた。
「ここで、何をしている?」
有信は囁くように訪ねる。
覆った口元をゆっくり解放すると、女は落ち着いた口調で答えた。
「父親を探しているの」
柔らかな声だった。
甘い香りの百合の花を思い出す。
「あなた、私のお父さん?」
問うとなると、彼女は自分の父親を知らないのだ。
おそらく知人の誰かからここにいると聞いてやって来たのだろう。そうなると父親はタケだろうか。見たところ彼女は二十代前半。そのくらいの年齢となるとタケと有信が出会う前か出会った頃の話になるだろう。色恋沙汰の全くない男ではなかったが、子供が居るとは聞いたことがない。
有信は静かに答える。
「心当たりはない」
「そう」
「誰に聞いた?」
女は顔を小さく振る。
「誰にも。……あなたは占いを信じる?」
聞かれ、有信は淡々と答える。
「人による。それがどうした」
隙を見せれば付け入られる気がした。いや、戸惑いを見せれば心を読まれるという方が正しいだろうか。
真っ直ぐに向けてくる視線は少し怖い。
「私、少し有名な占い師なの。私の占いの結果は確定した未来ではないけれど、良く当たると評判。占いで自分の父親をさがしているの」
「その結果がここだと?」
「信じる?」
有信は肩を竦める。
「保留にしておこう。……名は?」
「水守祐里子。母親は小夜子。父親は知らないわ」
「母親には聞かなかったのか?」
「教えてくれなかったわ。……あなたは、誰?」
「高橋洋だ」
有信は答える。
今まで何度か使ってきた偽名の一つ。
「どうして、顔をかくしているの?」
「不法侵入の女に言うことはない。……帰れ、そうすれば今日は会わなかった事にしておく」
「帰れないわ。私が帰れば、あなた、死ぬもの」
「死ぬ?」
興味深い言葉だ。
自分がいなければ死ぬ。
そんなことを言う占い師などそう聞いたことはない。まるで相手を不安にさせて高額のツボや札を売りつける悪徳業者のようだ。
「占い師は人の生き死にに口を出さないと思ったが?」
「本当は言ってはいけないの。でも、状況が悪すぎるから」
「それが本当である保障はどこにもないな」
「でも、嘘である証明も出来ない。お願い、動けないように拘束しても構わないから暫くここにいさせて。死ぬ可能性のある人を目の前にして放っておけないの」
彼女は真剣な眼差しを向けた。
本当かどうなのか分からない。
だが彼女は本気だった。本気でここに居座ろうとしているのだ。それほど父親に会いたいのか、本当に有信のことを心配しているのかわからない。
ただ、帰れと言ったところで彼女はこの場所の近くを離れないだろうと言うことが容易に想像出来た。
もしも嗅ぎ回るつもりならばこんな風に目立つ行動はとらないだろう。
そもそも父親を捜しているというのは出任せではないだろうか。
彼女はあまりにも冷静すぎるのだ。
「……?」
不意に、有信は彼女の手が握りしめられていることに気が付く。
緊張をしているのだ。
見知らぬ男に対して饒舌であるのも緊張から来るのだろう。極度の緊張を強いられてもそれでもここにいたいと思っている。彼女にとってそれは重要なことなのだ。
嘘には思えなかった。
百合の花を連想させる声と白い肌。
かつて。
かつて、自分の恋人であり、籍こそ入れなかったが自分の妻となった女は、百合の花がとても好きだった。彼女もまた、百合のような人だった。
もっとも、目の前に居る女はカサブランカのように芳香の強い大輪の花のイメージが強い。愛した彼女は少し小振りな優しい花。
少しイメージは違うが、どこか懐かしさを感じた。
不思議な、何か別のものを見ているような瞳が連想させるのだろう。
少しだけならば。
タケが戻り追い出すまではここに置いても構わないのではないだろうか。逆に言えば追い出して知らぬところで行動を取られるよりも、側に置いていた方が安心ではないだろうか。
「好きにすればいい」
「ほんとう?」
彼女の表情がほんの僅か明るくなった。
「ただし」
有信は付け加えるように、突き放すように言う。
「俺はここで起こることに対して何の責任も持たない。お前が誰かに殺されようと助けはしない。それでも良いなら居ればいい」
「それでいいわ。ありがとう」
ありがとうは変だ、と言おうとして有信は口を閉じる。
彼女はどこか満たされたように微笑んでいた。
その顔を見てしまったら、何も言えなくなってしまった。