9 鍵と宗
「いらっしゃいませ」
泉の声が聞こえ明弥はちらりと外を覗いた。
客席からは見えにくいが厨房からだと誰が入ってきたのかよく分かる。何度か見たことのある客だったが、目的の人ではなかった。
明弥は息を吐いて厨房の方へ戻る。
「おい」
「うわっ」
「さっきから、何をそんなにソワソワしてんだ?」
「さ、鮫島さん……」
普段通り後ろから羽交い締めにされて明弥は呻く。
慣れてきたとはいえ、鮫島の力が強いために苦しいのには代わりがない。
明弥は視線だけを上に向け放してくれるように懇願する。だが、鮫島は面白そうになおも強く締め上げた。
「彼女でも来る予定なのかよ?」
「く、くるし……」
「望、ほどほどにね」
声を掛けられてようやく緩んだ彼の腕から身をよじって逃げ出し明弥は吉岡の影に隠れる。
鮫島が不満そうに声を上げた。
「なんだよー、お前だって気にしてたじゃんか」
「気になるけど仕事中。久住くん、休憩中くらいリラックスしていたら?」
「あ、はい。すみません」
「謝る必要ないけどね」
吉岡が柔らかく笑う。
「で、本当の所、どうなの?」
「てめー、人には言っておいて……」
「だって気になるだろう?」
「お前って奴はっ!」
荒っぽく言ったがその顔にはじゃれるような笑みが浮かべられていた。鮫島のよすぎる体格では子猫と言うよりはライオンのイメージが強い。そのライオンが羊の皮を被った狐に襲いかかろうと手を伸ばした時、作業台の上にあった卵が振動で転がり落ちる。
「あ」
吉岡が声を上げた。
落ちる、と思った瞬間鮫島が手を伸ばす。
間に合わないと思ったが、一瞬、卵が空中で静止した。
(……え?)
鮫島が卵と床の間に手を差し込んだ瞬間、落下速度が通常通りに戻り鮫島の手の中に収まる。
「……あっぶねー」
ふう、と鮫島が息を吐いた。
「よかったね、落ちなくて」
「ああ、食材を無駄にするのは料理人の恥だからな」
見間違いだっただろうか。
明弥が二人に尋ねかけた時、手招きをする泉を見つける。自分を指差すと彼女は頷いて見せた。
何かあったのだろうか。
慌てて近寄ると泉は小声で訪ねた。
「久住君にお客さんなんだけど、何かちょっと……」
歯切れの悪い声に明弥は首を傾げる。
示された先にいたのは小柄でどこか胡乱な男。
他の人が見れば近寄りがたい雰囲気のある男だろうが、明弥にとっては親しみ深い人物だった。
「あっ……、大丈夫です。すみません、少しいいですか」
「あ、うん、構わないけど」
「すみません。お願いします」
エプロンを外し、明弥は男の元へと走らないように気を付けながら急いだ。
自然と口元が緩んだ。
本当は水守の来店を待っていたが、彼の来店もまた嬉しかった。
「タケおじさん」
明弥を確認してタケが笑う。
「ようアキ坊、元気だったか?」
「うん、おじさんも元気だった?」
当然、と彼は頷く。
小さい頃から時々明弥やトモミを気に掛けてくれていた大人。彼が言うには有信の友達と言うことだ。見た目は少し怖いように見えるが、気さくで優しい人だった。明弥の周りで唯一、有信の生存を絶対的に信じてくれていた人。
明弥は向かいの席に座って笑う。
年齢のせいか、それとも明弥が成長したせいだろうか。初めてであった時よりも小さくなった気がした。
「どうしたの、おじさん」
「ここでバイト始めたって聞いてな、高校の入学祝いもやってなかったし、ついでにコーヒー飲みに来た」
「お祝いなんていいのに」
明弥はくしゃりと笑う。
いい、とは言ったものの凄く嬉しかった。父親の友達を名乗るこの人は、まるで父親がそうするように何かがあると祝ってくれた。贈り物が嬉しい訳じゃない。こうして忘れず祝ってくれるのが嬉しいのだ。
「ほら、トモと一緒に開けな。場所はいつもの所だ」
言ってタケがコインロッカーの鍵を渡す。
彼はいつもそうやって鍵を渡してプレゼントをくれる。何か冒険をしているようで楽しかった。一度どうしてそんなことをするのか聞くと、照れくさいのだと答えたが、こうして鍵を渡すのは逆に照れ臭くないだろうか。
それでも、いつもと同じなのが嬉しい。
「ありがとう。……ねぇ、おじさん」
「うん?」
「父さんやっぱり生きているよ」
タケは驚いたように目を剥いた。
「……会ったのか?」
明弥は首を振る。
見かけたけれど、直接会ったわけではない。勇気はそれらしい人物に会ったと言っていたが、それでは自分で会ったとはいえない。
「会ってないけど、生きているのは本当。……もし、おじさん父さんに会ったら心配していたって伝えてくれる?」
「ああ、当然だな。でも、その前に殴るかもしれん」
「殴る?」
「こんな可愛い子供放ってどこ行ってたんだ、ってな」
に、と彼は皮肉を言うように口の片側をつり上げた。
明弥は笑う。
「うん、いっぱい殴っておいて。僕達の分も。……多分、僕達が会ったら怒ることも出来ないから」
「アキ坊……」
「ね、おじさん、父さん戻ったら一緒にご飯食べよう? 僕も少しくらい作れるようになったし、トモちゃんの作るおみそ汁とっても美味しいんだよ、だからおじさんも……」
タケは複雑そうに明弥を見返した。
「おじさん?」
どこか様子が変な気がした。
明弥は首をかしげる。
何でもない、とタケは首を振った。
「親子水入らずなのに邪魔したら悪いな、って思っただけだよ」
「邪魔なんて……タケおじさん、父さんの友達だし、それに僕らにとってお父さんみたいだから」
「そう……か。なら、俺もそれに参加させてもらう。が、喰えるもん作れよ?」
「こ、今度は失敗しないよ」
明弥は口をへの字に曲げる。
手料理は、一度失敗済みなのだ。
くくっと可笑しそうに彼は笑った。
「期待している」