6 赤毛の獣
「映画、アニメじゃなくても良かったの?」
「うん、洋画が見たかったんだ」
政志は大切そうに映画のパンフレットの入った袋を撫でた。
映画はアクションもコメディもなく、小学生が見るにはつまらなそうな内容だと思えたが感動系の作品でそれなりに面白かった。政志は字幕を追うのがやっとといった様子だったが、それなりに満足したようだ。
普段はアニメばっかり見ているが、背伸びをしたいのだろう。明弥にも経験があるから少し微笑ましく思えた。
見終わった後、マクドナルドにでも行く予定だったが、政志の要望でカフェに入った。
白い椅子とテーブルに、青緑色のパラソルが差されたテラスがあるカフェだった。
春の暖かな日差しの落ちるテラスで暖かい飲み物を注文する。これで、隣のビルが工事中でなければ風景も良かっただろう。
「……にが」
飲み物を口にして政志が表情を歪める。
「ほら、やっぱコーヒーよりこっちの方が良かっただろう?」
言って明弥はホットココアを政志の前に差し出す。
渋い顔で彼は受け取った。
「ごめん」
また意地を張ったような言葉が返ってくるだろうと予測していた明弥は思わぬ素直な態度に目を丸くした。
「……やっぱ兄ちゃんみたいになれないよな」
「ん? 何か言った?」
「何でもない。それより、高校合格オメデトウゴザイマス」
「うん、ありがとう」
試験の後、風邪で寝込むことになったが、入試はまともに受けられたし、出来も良かった。おかげで明弥は高校合格を果たした。トモミもどうやら合格したようだ。これで春からは二人揃って西ノ宮高校の生徒になるのだ。
クラスは同じになるとは限らないけれど、トモミと同じ学校に通えるのは少し嬉しかった。楽しい三年間になるだろう。
「んー、だけどプレッシャーだなぁ」
「何が?」
「俺も西ノ宮行けってお母さんに言われそうだし」
確かにそれは言われそうだ。
「政志は、政志の行きたいところに行けば良いんだよ。奈津姉だって散々揉めて女子校に行ったんだし。状況違うの確かだけどね、無理をする事は無いんだよ」
「行きたいところが特にないから迷うんだよ」
「進路決めるのはまだ先なんだしゆっくり悩めばいいよ」
明弥は取り替えたコーヒーを口にする。
政志は複雑そうな顔をする。
「そんな頃は兄ちゃんだって……」
きらり、と何かが煌めいた。
工事中のビルの屋上。
訝しんで顔を上げた瞬間、彼の意識は遠のいた。
ほんの僅か彼の記憶が飛ぶ。
何も分からない。
気が付くと明弥の目の前には鉄筋が突き刺さっていた。破壊されたカフェのテーブルや椅子が、辺りに散乱している。
ざわざわと周囲がざわめいた。
「?」
「……兄ちゃん」
怯えたような、か細い政志の声が腕の中から聞こえてきた。
ちょうど弟を抱きかかえるようにして明弥は鉄筋を見ていた。
先刻まで手にあったはずのコーヒーはもう手元にない。
何が起こったのか理解できなかった。
状況すら分からない。
「今……何が……」
周囲の人の言葉でビルの屋上から鉄筋が落ちてきたことに気が付く。
それはまるで明弥たちを狙うように彼らのいた場所に落ちてきたのだ。怪我はないのか、と問いかける男の質問にようやく自分が間一髪のところで政志を連れて逃げたことが想像できた。
一瞬の記憶が全く無かった。
けれど、確かに今明弥は政志を抱きしめて壊れたテーブルから離れて座り込んでいるのだ。どう行動したのか全く覚えていないけど、助けなければ、と思ったのだけは強く感じていた。
ぐちゃぐちゃになったテーブルを囲んで人々が口々に何かを言っている。衝撃が強かったのか隣のテーブルにいた人達も何人か飛ばされて倒れていた。
「政志、怪我は?」
「ない……けど、兄ちゃん、今……」
「大丈夫、何も心配するな」
怯えた声を上げる政志に明弥は優しく言う。
こういった事故に巻き込まれることは良くあった。大抵一人でいる時に、上からものが落ちてきたり、通り魔に襲われたり。明弥にとっては小さい頃から幾度と無く遇っていることだから珍しい事ではないのだ。
けれど、政志にとっては大事だ。
あのままあの場にいたのなら、二人とも命はなかったのだ。
バレンタインの日に起こった事故を思い出す。
あの時も何事も無かったが、トモミが近くにいた。
自分がいくらこんな事故に巻き込まれても構わない。けれど、誰かが一緒にいる時、誰かを巻き込むような事故になってしまうのなら、この巻き込まれやすい体質が呪わしい。
そう言えば岩崎は言わなかっただろうか。
明弥のそれは危険だから、自覚した方がいいと。
それは、このことを言っているのだろうか。
(危険を、引き寄せる体質……?)
がん、と鉄筋が鳴った。
また何か上から降ってきたのだろうか。
思った瞬間、明弥は凍り付いた。
周囲から耳を劈くような悲鳴が上がる。
「っ……!!」
政志が身をよじって明弥の首に巻き付いた。
獣が、いた。
巨大な犬のような生き物。
犬ではないと思ったのは大型犬を軽く超える大きさと、その毛並みが赤銅色をしていたからだ。
まるで。
まるで、赤毛の狼。
ぐるる、と狼が唸る。
明弥を見つめ、まるで獲物を見つけたかのように。
「……政志、逃げるんだ」
「……で、でも、兄ちゃん……」
身体が震える。
だけど、政志だけでも守らなければ。
「いいから、逃げるんだ。あいつは、多分、俺を狙っているから」
「え……」
戸惑った政志の声。
どん、と彼を人混みの方に押しやって、真逆の方向に明弥は走り出した。それを避けるように人混みが割れる。
危険を引き寄せる体質。
ならば、あの赤毛の狼も自分を追ってくる。
その、予測は正しかった。
赤毛の狼はものすごいスピードで明弥の背中に飛びかかった。
「……っ!!」
はじき飛ばされるようにして押し倒される。
見えたのは、鋭い牙と、犬とは思えない刃物のような爪だった。