5 入試
バレンタインに貰ったトモミのお守りは案外と良く利いた。
午前中の試験は思っていたよりも上出来だった。
午後も続く試験に備えてトイレを済ませた明弥は手を綺麗に洗ってからポケットからお守りを出した。ピンク色の布を袋状に縫い合わせて「合格!」という刺繍が入っている。所々ほつれているが、それがまた嬉しかった。
不器用なトモミが、一生懸命作ってくれたものだ。
嬉しくって、頬が緩む。
「あ、ごめんなさい」
入ってきた男子生徒にぶつかり明弥は慌てて謝る。
制服を見てぎくりとした。
他校の、生徒だ。
受験生だというのに妙にガラが悪い。制服を着崩して、靴も中途半端に履いている。リーダーとおぼしき人物の後ろに、二人見えた。
本当に西ノ宮の受験生なのだろうか。
「何だ、お前、にやけて気持ち悪いな」
「すみません、通して下さい」
明弥はぐっと表情を引き締める。
本能的に絡まれると思った。
入学試験に来ているのだから揉め事は起こしたくない。
「お前達、何か聞こえたか?」
リーダー格が言う。
にやにやと笑って後ろの男たちが首を振った。
(まずいな……やっぱり絡まれたか)
こういう連中に絡まれる事は良くある。だから絡まれること自体は慣れていたがやり過ごすことに慣れている訳ではない。
自分は昔から運が悪いのだ。
事故や事件もそうだが、他人より巻き込まれる率が高いだけで、今もまだ五体満足に機能しているのだから別に不幸だとは思わないが、何もこんな時まで絡まれることはないじゃないかと少し嘆いた。
人生を左右する大事な試験なのに。
明弥はぐっとお守りを握った。
後ろに控えた一人がそれに気付く。
「こいつ、何か持っているぜ。……何だこの不格好なお守りは」
「ちょっ……返して下さい!」
「ゴミだろ? ゴミはゴミ箱に捨ててやれよ」
お守りが、取り返そうとして伸ばされた明弥の手をすり抜けてリーダーの手に渡る。
「汚物だろ、だったら便器の方がいいんじゃねーの?」
「まっ……」
後ろから二人に捕まれた。
目の前で見せつけるようにトモミのお守りが揺れる。
お守りが、小便器の中へ、放り込まれる。
トモミの気持ちが。
踏みにじられる。
彼女なら笑って、むしろ明弥の事を心配してくれる。
だけど、
(嫌だっ)
止めてくれ。
声は、言葉にすらならなかった。
腹の奥底から、何かがせり上がるように出てきた。
それだけは、嫌だ。
「っ!!」
叫んだ。
声にならない声で。
刹那。
「!?」
ドン、と何かが衝突したような、破裂したような音が響く。
大きく揺さぶられて男たちと共に明弥はトイレの床にしゃがみ込んだ。全身が水浸しになるのを感じる。トイレの水道管から水が止めどなく噴き出していた。
破裂したのだ、と明弥は悟る。
「………ってぇ」
明弥を掴んでいたうちの一人が頭を押さえて蹲った。
「……?」
何が、起こったのだろうか。
ジリリリリ、と激しい警報の音が鳴り響く。
水に流され、トモミの作ったお守りが明弥の手元まで流れて来る。明弥はそれをぐっと握り込んだ。
「お前達、何をしたんだ!」
咎めるように叫んで入ってきた教師が、その惨状を見て絶句する。
水道管の破裂したトイレの中は水浸しになりその中に四人の男子生徒達が蹲っている。
何が起こったのか、現場に居合わせた本人達すら分からない。
後から来た教師達もまたどうして良いのか判らない様子だった。
元栓を止めてきます、と誰か一人が管理部屋へと走っていった。
やがて、吹き出す水は弱まった。
「お前達、一体何を……」
「そいつが! そいつが何かしたんだ!」
リーダーが明弥を指差して叫ぶ。
「そいつが何か叫んだ瞬間にこうなったんだ! 何かしたならそいつが……」
「無関係だと思いますよ」
冷静な声が聞こえた。
明弥は視線を上げる。
「今日は寒気が凄いらしいですから、水道管が凍って破裂したんでしょう。この辺じゃあまり無いですけど、長野とか寒い地域の方では時々あるようですから」
彼も受験生だろうか。
トモミと同じ学校の制服を着た男子だった。
落ち着きすぎている判断に教師が戸惑ったような声を上げる。
「君は……」
「岩崎勇気。受験生です」
戸惑う教師の後ろでもう一人が「警察庁の」と耳打ちをした。一瞬驚いた素振りを見せたが思い当たった所があるのか、納得したように頷いた。
岩崎は水浸しのトイレの中に足を踏み入れ、なおも喚き散らすリーダー格の男の横に屈んで何やら耳打ちをした。
蒼白になり、男は喚くのを止める。
何を言ったのだろうか。
訝っていると、いつの間にか入ってきた教師達に立つように促されタオルを渡された。タオルの暖かさに、ようやくからだが冷え切っている事に気付く。
春に近いとはいえ、先刻岩崎の言った通り、今日は寒気が襲っている。その中で水浸しになったのだ。
とてつもなく寒かった。
ガタガタと震え出す明弥を見て、誰かが「保健室へ」と言う。
「俺が付き添います」
「ああ、じゃあ岩崎君、頼むよ」
「はい」
明弥の見えないところで何か会話が交わされ、震える彼の肩を誰かが抱いた。恐らく岩崎だろう。彼に促されるままに歩きながら明弥は大勢の人に見られている気配を感じていた。
がやがやと騒がしい。
教室に戻れ、と教師達の声に混じって、あの人格好良い、と呟く女子の声が聞こえる。
明弥は岩崎を見上げた。
確かに端正な顔立ちをしている。
「お前」
岩崎の目が明弥を睨む。
「自分が、何したか分かっているのか?」
「……え?」
意味が分からず問い返すと彼は小さく舌打ちをする。
「分からないフリか、それとも本当に知らないのか。どっちにしたって自覚した方がいい。お前のそれは危険だ」
「え…? それって?」
遮るようにがらがら、と音が響く。
暖かい空気と保健室の匂いがした。
保険医らしい女がどうしたの、と驚いたように声を上げた。岩崎が何かを説明して、ストーブの側に明弥を座らせる。明弥の身体の震えが強くなった。ストーブの熱気で身体の冷えがますます強調されたのだろうか。
彼が落ち着き、身体の震えも止まる頃、岩崎の姿は保健室には無かった。
代わりに先刻の三人組が明弥同様に震えていた。