9 鈴華の手
不思議と痛みはない。
傷が深いと逆に痛みを感じないのだとか、聞いたことがある。
多分、刺された傷はそれだけ深いのだ。
それより、トモミはどうしただろうか。鈴華は? 政志は? そして、あの男は明弥を刺した後、どうしたのだろう。
焦点が定まらない。
自分は今、どこにいる?
何を見ている?
ぼんやりとしたなかで人が賢明に動いているのが見えた。何かを言っているようだが、何を言っているのか聞き取れない。
ここは、どこなのだろう。
泣きじゃくる声が聞こえた。
すぐ近くで誰かが泣いている。
トモミだろうか。
また、自分なんかのために、トモミが泣く。
昔から、泣かしてばかりだ。心配させて、泣かして、でも、明弥がトモミが泣くのをみるのを嫌いだと知っているから彼女は無理して笑う。辛い時も、哀しい時も無理して笑う。そんな彼女の優しさに明弥は甘えていた。
何で、こんな優しい人を、自分なんかの為に泣かさなければいけないのだろう。
何で自分はこんなに誰かの迷惑にしかならないのだろう。
せめて笑おうと思った。
誰かの迷惑にしかならないのなら。
せめて誰も憎まずに、誰からも憎まれずにいようと思った。
そうしていれば少なくとも苦しくない。自分勝手。自分を守ること以外、何も出来ないほど無力だから自分勝手に生きるしかない。
でも、それが、また誰かを傷つける。
「……明弥さん!」
「……?」
叫ぶ声を聞いて明弥はうっすらと目を開ける。
何か他の人も叫んでいたが、それは雑音にしか聞こえなかった。
繰り返し叫ぶ鈴華の声だけが、ただ鮮明に聞こえる。
「明弥さん、しっかりして、明弥さん!」
泣いていた。
ああ、そうか、泣いていたのは彼女か。
彼女が刺されるのを見るのが嫌で庇った。
だけど、そのせいで彼女が泣いている。
(……嫌だな)
彼女が泣くのを見るのは嫌だ。
泣かせてしまったのは自分。
だったら、あの時どうすれば良かったのだろう。
「………二度も、私を庇うことなんかないんです」
「……?」
「あの時だって、後ろに私がいたから、明弥さん、動かなかった」
いつのことか、分かった。
火傷の男に頼まれたと言った男がナイフを出した時だ。
あの時、明弥の真後ろに鈴華がいた。避ければ鈴華が刺されることは分かっていた。それは避けなかった理由の一つだけど、半分はあの時どうでも良かったのだ。終わるなら、終わってしまえばいいと、本気で思ったのだ。
「私のことなんて……庇う必要なんかなかったのに………どうして」
最後の方は涙で言葉になっていなかった。
ああ、分かった。
初めて会った時から、彼女のことが気になっていた。年下の、それも小学生の女の子が気になるなんて、何だか奇妙なきがしていた。彼女が大人びているせいなのだとばかり思っていた。
でも違う。
似ていたんだ。
彼女は、明弥によく似ていた。
だから気にかかった。
だから、気にかかって当然だった。
気にならない訳がなかった。
太一や斎に対してありのままに接しているように見えてどこか遠慮をしている。それが自分に似ている。
明弥は鈴華に手を伸ばす。
酷く怠くて自分の手ではないかと思うほど重かった。
這わせて捜す。
彼女の手の平。
泣かないで。
大丈夫だから。
そう伝えたかった。
自分と同じ経験をしてきた子に、自分を庇ったせいで人が苦しんでいる姿なんて見せたくなかった。
もう一度うっすら目を開くと、涙に濡れた鈴華と目が会う。
そして、笑った。
……笑えただろうか。
声は出ない喉が詰まったように苦しくて声なんか出なかった。だけど、少なくとも伝えられる。
(……大丈夫だよ、僕は、死なない)
彼女の手を見つけた。
明弥はそれを握る。
一瞬だけぬくもりを感じるがすぐにそれは気のせいだと言うことに気が付く。彼女の手は凍り付いたように冷たい。
それだけ緊張していたのだろうか。
酷く驚いた様子だったがやがて鈴華は微笑んだ。
どこか彼女らしくもない作ったような笑みだった。
泣いていたはずの彼女が笑んでいる。
それは望んだことのはずなのに、何故だかその笑顔は望んだものと異なっているような気がした。
「……?」
彼女が何かを言った。
聞き取れずに明弥は瞬く。
明弥が握っていない方の鈴華の手が明弥の額に触れる。
ぞくり、と何かが全身を駆け抜けた。
嫌なものに触れられてしまったような感覚がする。
目の前にいるのは鈴華のはずなのに、鈴華ではない。
そんな錯覚を覚えるほどに鈴華から嫌な気配を感じる。
(……誰?)
この子は、誰だ?
酷い眠気に襲われる。
眠りたくなかった。
何かとんでもないことが起こっているような気がして。
それでも明弥の思考はだんだんと緩慢になっていく。
考えなければ眠ってしまうそうだというのに、考えることすら嫌になる。
「………………?」
質問をするように彼女が何かを言った。
聞き取れない。
答えられない。
ただ深い眠りに落ちていくのを感じた。
夢すらも見えない、深い眠りに。