8 アイン
男の瞳を見て背筋がぞっとした。
明弥は一歩後退する。
見たことのない男だった。冷たい瞳は神社での井辻によく似ている。完全に気が触れてしまったような目をしていた。
片手にナイフを握り、その手首をしきりに撫でながらこちらを見ていた。
「……にさえ………ば」
男はぶつぶつと何かを呟いた。
明弥は自分の背に鈴華を隠すようにしながら彼女の手を握った。
彼女の手は冷たく、硬直していた。
「……インにさえ………関わらなければ」
凍えるような瞳はじっと明弥達を睨んでいる。
狂っているようなのに、その瞳に宿った意思だけは強く逆にそれが不気味さを強調していた。
「……アイン?」
口にすると一瞬だけ男の目に違う感情が交じる。
驚いたような、明弥の存在に初めて気が付いたかのような複雑な表情。
本能的に悟る。
狙いは鈴華なのだ。
「……鈴華ちゃん」
明弥は囁くように言う。
「合図したら、後ろに向かって走って」
彼女を狙っているのなら、彼女が逃げた瞬間隙が生まれる。
真っ正面から行っても駄目なら隙をつくしかない。
単純だけれど、それが一番正当な方法。
「でも……」
「いいから」
明弥はそっと彼女の手を離す。
距離を確認しながら、少しずつ動いた。
多分、この状況を見て誰か通報しているだろう。
時間を稼ぐため、相手の気を逸らす目的で明弥は問いかけた。
「アインって、何ですか?」
「……」
「何を……するつもりですか?」
「……」
男はじっと明弥を見つめたまま何も答えなかった。
ぶつぶつと何かを呟く事すら止めて明弥を見つめている。
ほんの僅かだけ、男の狂気じみた気配が和らいだ気がした。
「あなたは、誰ですか?」
「…………お前は、誰だ」
逆に問われる。
明弥は少し間を置いて答えた。
「久住明弥です」
「……久住……そうか、お前はアレの息子」
非常灯だけの暗がりの中で、男は腕をさする。
びりっ、とそこから静電気のような青白い光が漏れて見えた。
「アインの……産物」
「アインって、何ですか?」
まるで明弥の両親のどちらかを知っているかのような口ぶりに明弥の心臓は高く鳴った。
この人は、誰だ?
「何故お前が、悪魔の子と………………そうか、やはりまだアインは終わっていない……。アインは終わっていないのかっ!」
くくく、と男は引きつったような笑いを浮かべる。
「逃げられない……誰も悪魔から逃げられない……アインが今も進んでいるのならなおのこと」
「悪魔?」
「殺すしかない。悪魔の血を引く者全て! アインに関わった者全てっ!」
男は叫ぶ。
瞬間、明弥は鈴華の身体を押した。
「走って!」
叫ぶと同時に明弥も走る。
血走る男の目は鈴華を見ている。
ナイフを振りかざし、男が動いた。
明弥は男の懐に飛び込んでナイフを握る手を掴んだ。
刹那。
「……っ!!」
びりっと感電したような衝撃が明弥の全身を駆け抜けた。
なおも必死に男の腕を掴み続けた明弥の腹部を男の足が蹴飛ばした。
「ぐっ……!」
明弥はそのままベンチの方まで吹き飛ばされた。
男が鈴華を狙う。
こみ上げる感覚。
その曖昧な力に頼る気にはなれなかった。
ベンチに激突した痛みを感じている暇なんてなかった。
どうやって起きあがったのかも分からない。
気が付けば明弥は鈴華に向かって走っていた。
鈴華が振り返る。
恐怖よりも驚きの方が勝った表情。
男は振り返らない。
ただ鈴華だけを狙っていた。
ナイフが振り下ろされる。
それは宙を薙いだ。
男のナイフが翻る。
真っ直ぐ、突き出された。
息が掛かるほどのすぐ近くに、男の顔が見えた。
「っ!!」
どん、という衝撃があった。
明弥の身体は大きく後ろにのけぞり、そのまま床に落ちた。
天井が見える。
非常灯の明かりは、接触の悪い電灯のようにチカチカとゆれている。
名前を叫ぶのはトモミと政志の声。
反転した視界の中に硬直している鈴華の姿が見えた。
早く逃げて。
(……?)
声を出そうとして、出せないことに気が付く。自分の口からは自分のモノとは思えない呻き声しか聞こえなかった。
悲鳴が上がる。
誰かが、警察を、救急車を、と叫ぶ。
その声を聞くまで明弥は自分が刺されたことに気が付かなかった。
服がじっとりと生暖かい何かで濡れていくような感覚を覚える。手を這わせるとぬるりとした液体が指に絡みついた。
血だ。
頭の中は酷く冷静だった。
更に手を這わせると、硬い物が手に触れた。
おそるおそる、目線を下の方へ移動させる。
身体から突き出るように何か鈍い銀色のものが見えた。
「………いやぁあああ!!!」
どこからか聞き覚えのある声で悲鳴が上がった。
明弥は薄ぼんやりとし始めた意識の中で思う。
(ああ……またトモちゃんが泣くのか)
自分なんかのために。