7 明弥
「政志」
トモミが呼びかけると、政志は目元を腕でこすった。まるで、トモミが追いかけて来るのを待っていたという風に一階のエスカレータの近くにある椅子に腰を下ろしていた。
彼女は呆れたように腰に手を当てた。
「もう、そんな顔する位なら最初からあんな事言わなきゃいいでしょ」
「……うるさいよ」
政志はずっと、鼻をすすった。
ぺちん、とトモミは政志の頭をたたく。
「明弥がマサのことどう思っているか。あんただって分かっているんでしょ」
「……知らないよ、そんなの」
「言っておくけど、嫉妬するの、私の方なんだからね」
「何でトモ姉が嫉妬するんだよ」
「私、小さいころだけだもん。アキちゃんと一緒に暮らしていたのって」
言って政志の隣に腰を下ろす。
「それも殆ど覚えていないくらいの大昔。私、一人っ子だから、正直羨ましいよ、そういうの」
明弥とは双子として生まれた。
けれど、一人っ子として育った。
イトコの三姉弟が、どんなに羨ましかったのか政志には分からないだろう。それは明弥が自分の実の兄だと知っても変わらなかった。一緒に遊んでも、帰る場所は違う。一緒の家に帰る明弥と政志のことがどんなに羨ましいのか、それは明弥にだって分からない。
いくら明弥が自分のことを大切に想っていると知っていても、自分がそうであるように、強く想っていると知っていても「バイバイ」と手を振る瞬間の嫌な感情は変わらない。
「……兄ちゃんさ」
「うん?」
「高校卒業したら、家出るつもりだよ」
「明弥がそう言ったの?」
政志は首を振る。
「直接聞いた訳じゃないけど、兄ちゃんが南陽じゃなくて西高にしたのも、バイト始めたのも、そう言うことなんだろう? 兄ちゃん、峰倉に行くつもりなんだ。前に、大学案内の本、真剣に見てた」
峰倉大学はここから少し離れた場所にある大学だ。久住の自宅から通うには少し離れているため、学生寮に入るか近くにアパートを借りることになるだろう。私立よりも公立の方が授業料はかからない。同じ進学校でも、敢えて西ノ宮を選んだのはそう言った理由がある。そして西ノ宮から峰倉大学への進学率は高いし、推薦枠も多い。
明弥が西ノ宮に進学と聞いた時、トモミもそう思っただけに否定は出来なかった。大学進学は家を離れる大きな理由になる。
口に出したのは聞いたことはないけれど、明弥は家を離れたがっているように見えた。
多分、政志の為に。
「兄ちゃんが嫌なら、俺が跡継ぎだっていいんだけどさ、遠慮してるなら、バカだよ。いっつも大切な事、何も話してくれない」
「そうだよね、明弥っていつも重要なこと、黙っているんだよ。無理矢理白状させて、追及したら必ず言うんだよ」
『本当はもっと確信持ってから話したかった』
最後の部分は政志とハモる。
覚えず、二人は吹き出した。
明弥は無理をしている。政志やトモミにすら嘘を付く。騙して思いのままに操ろうとしている訳ではなく、心配を掛けまいとして自分の心さえも押し隠す。
優しい嘘。
でも、逆にそれを知ると自分はそんなに頼りないのかと問いたくなる。
トモミも政志も多分明弥が思っているより強かだ。だからもっと、頼ってくれて良い。情けないことを言ってくれて良い。でも、彼はそれをしない。そう出来ないのが明弥なのだと知っている。
少し、それが寂しい。
何かあってからじゃ遅いのだ。
全て終わってからでも遅いのだ。
明弥が自分たちを心配しているのと同じように、自分たちも明弥のことを心配している。そういうところ、分かっていないのだ、と思う。
「ねぇ、マサ」
「うん?」
「あんた、あの子のこと、好きでしょ」
「なっ……!? 何だよ、突然!」
政志の顔は赤い。
彼女はにやり、と笑った。
「図星だね。おかしいと思ったよ。いっくらそう言う事情でむかついていたとしてもさ、マサ人前であんなに怒らないでしょ? 大好きなお兄ちゃんと、大好きな鈴華ちゃんが自分の知らないところで仲良くてビックリしたんでしょ。だから余計に怒った」
う、と言葉に詰まったように呻く。
彼は恨めしそうに彼女を睨んだ。
「………何で分かるんだよ」
「私にも経験あるから、ね。ほら、私たち同じタイプだから」
感情的になりやすい、とトモミは笑う。
「明弥って、優しいからもてるんだよね。こっちが嫉妬するくらいモテモテ」
「そのくせ、鈍感」
「言えてる」
くすくすと笑う。
本人がいないから、言いたい放題だ。
でも、とトモミは言う。
「そういうところが、明弥だよね」
「じゃなきゃ兄ちゃんらしくないよな。……なぁ、トモ姉」
「うん?」
言いにくそうにうつむく。
ぼそぼそと聞き取りにくい声だが、ちゃんと聞き取った。
「その……ありがとう」
「浮上した?」
「何とか」
「じゃあ、謝りに行く? 心配しているよ」
「うん。……あーあ、トモ姉にもいっつも迷惑かけてばっかりだ」
ぽんぽん、とトモミは政志の頭を叩く。
先刻より少し優しい叩き方だった。
「世話焼くのは私の趣味。別に気にすることないの。それに、敵に塩を送るって言うでしょ?」
「敵?」
「ライバルでしょ? 二人とも、アキちゃん大好きなんだし」
「なるほど」
くしゃり、と政志は笑う。
散々言って、気が晴れたのだろう。実際の所政志だって分かっているのだ。明弥が隠し事をする時は、されてあんまり気持ちのいい話じゃないと言うことを。頭で理解しても、割り切れなかっただけだ。本気で帰ってくるな、と言った訳じゃない。明弥だってそれを承知しているだろう。
椅子から立ち上がり登りのエスカレータに乗ろうとした時だった。
ばちん、と音が聞こえて店内が暗闇に落ちた。
「……明弥?」
トモミは上を見上げる。
呼んでいる気がした。
(ちがう、泣いている……?)