2 てんとう虫の夢
指を這うようにてんとう虫が歩き始める。
天を目指すように上へ、上へと登っていく。
指を下に下げると、方向を変え、再び上に向かって歩み始める。てんとう虫は、延々と空を目指す蟲。
彼女は、人差し指を這うてんとう虫を親指で挟み込んだ。
潰れるだろうか。
どれだけの力で?
どんなふうに?
悲鳴を上げるだろうか。
人には聞けないその声で。
てんとう虫は指の間でもがく。
輝く赤と黒の背中が、醜く歪む。
少女は冷めた瞳でそれを見つめた。
残酷さも、無邪気さもない。
ただ無感情なまでに冷ややかな認識するだけの目で。
「レイカ」
呼びかけられて彼女は顔を上げた。
縁側に腰を下ろした兄は青白い顔をこちらに向けている。病弱なのだ。家の主でありながら病の床に伏せて滅多に顔を見せない。日にも当たらないから顔はいつも青白い。ただ優しい笑顔をこちらに向ける。
古武の家には自分と母親の違う兄が三人いる。その中で本当に古武の血を引いているかと思うほど大人しく儚いのが一番上の兄だった。正直、好きなのか嫌いなのかよく分からない。
兄の後ろにはこちらを伺うように幼い子供が立っていた。不安そうな顔をしている。
レイカは静かにその子供を見た。
白いワンピースに、麦わら帽子をかぶった瞳の大きな子供。
妹だろう。父親の違う、八歳年下の妹。まだ何も知らない。両親が死んで、母親の縁を頼ってこの家にやって来た。
古武の家には何の縁もない。自分とだけ、血の繋がる子供。
本人はまだ何も知らない。
「林、明香ちゃんだよ。今日からこの家で一緒に暮らすことになる」
「そう」
レイカは冷ややかに答える。
要らない。
興味がない。
「仲良くしてあげてくれないか? 僕はこんなだから、構ってもあげられない。それに、この家でレイカが一番年が近い」
どうでもいい。
年齢なんて。
でも、当主の言葉が絶対なのだという決まりだ。この家では。
この家で庇護を受けて生活するには、そうして従う事が一番楽な形だった。
「……」
無言で明香を見上げると、彼女はびくっと方を振るわせた。
怖いのだ、自分が。
自分では自分の何が怖いのかよく分からなかった。でも経験で年下や同年代は自分を恐れ、年上の人達は自分を気味が悪いと思うことを知っている。
レイカは明香を見つめ、手の力を少し緩める。
ようやく解放されたてんとう虫は焦って逃げ出すように空へと飛んでいく。
明香がその虫を目で追った。
「おいで」
レイカは言う。
彼女は一瞬何を言われたのか分からないという風に目を丸くした。そしてようやく言葉を認識したのか、零れるような笑顔を向ける。兄の儚い微笑みとは違う、全身からあふれ出すような笑顔。
「……うんっ!」
縁側に出されていたサイズの大きいサンダルを引っかけ、庭に飛び出してくる。
少女の柔らかい小さな手が、自分の腕を掴んだ。
少し力を込めただけで簡単に折れてしまいそうな細い手。それなのに、暖かくどこか力強い。
どうして、笑うのか。
自分のこと、怖いのではなかったのか。
見つめる彼女の顔に、てんとう虫が止まった。
一瞬驚いた顔をする彼女の頬に触れるとてんとう虫がレイカの指先に移る。そのまま再び天高く舞い上がった。
てんとう虫を見送って、明香は、少し照れたようにはにかんだ。
つられたようにレイカも笑う。
笑ったのは随分と久しぶりのような気がした。
(………?)
彼女はぼんやりと目を開いた。
何か夢を見ていたような気がしたが、よく思い出せなかった。
とても懐かしい古い夢だったような気がする。
不意に視界に自分を覗き込む男の姿を見つける。
この人は、誰だっただろうか。ああ、そうだ。
( ……‘昔の自分によく似た人’)
「……なん……じょう、くん?」
「!」
声を掛けると彼は驚いた用に目を見開いた。
「レ……イカ……さん?」
そう呼ばれるのも随分と久しぶりな気がした。
どれだけ長い時間合っていなかっただろう。
彼は少し老けた。でも顔の作りはあの時とあまり変わらない。いや、前よりも少し表情が優しくなっただろうか。
(……前よりも?)
一瞬意識が混乱する。
ゆっくり思い出す。
自分の事と、彼との関係を。
そう、この人は、自分の、兄だ。
「……? 斎兄さん? 帰ったの?」
鈴華は半分寝ぼけた状態で問いかける。
今何時だろうか。
仕事が終わって帰ってきているのだから、もう深夜になっているだろうか。
「……っ」
斎は酷く複雑そうな表情を浮かべていた。
いつも穏和に微笑む兄がこんな風な表情を浮かべているのを見るのは初めてかもしれない。泣きそうな、哀れむような、それなのに何処か喜んでいるような色々と入り交じった感情を殺し損ねたというような複雑な顔。
「どうか、したの?」
「え……いえ。このところ少し体調が悪いと聞いたので、大丈夫ですか」
「大丈夫、兄さんは……心配しす………ぎ」
再び眠りに落ちていくのを感じた。
問いかけるように呼ぶ斎の声には答えられなかった。
鈴華は目を瞑り、眠りに身を委ねる。
まだ熱があるのだ。
身体が熱い。
「………あなたって人は、どこまでっ」
吐き捨てるような斎の声が聞こえた。
(あなた、ってだぁれ?)
……誰のことを言っているの?