4 思い出の匂い
男は小児病棟への入り口をくぐった。
190センチを軽く超える立派な体格の男の髪は赤い。肉体は鍛え抜かれ見る者を圧倒するほどの気迫を備えた男だ。目つきは鋭く、小児病棟はおろか病院に入っただけでも不審者と疑われそうな外見をしていたが、スタッフや長く入院している子供達はちらりと見やっただけで気にする者はいなかった。
皆、彼が見舞いの一人である事を知っているのだ。
「南条さん」
ナースセンターにいた若い女看護士が男の姿を認めて声をかける。
彼はカウンターに備え付けられている見舞い受付用の紙を取り出しながら僅か表情を緩ませた。
「ああ、あんたか」
彼女は男を見上げて微笑んだ。
南条太一の身長は高い。看護士、木村早希の身長は低い方では無かったが、どうしても見上げる形になってしまう。
「いつもお疲れ様です。鈴ちゃんなら図書室の方ですよ」
「ああ、ありがとう。……それと、この間のチョコ旨かったよ」
早希は微笑む。
「良かった。南条さん甘いモノ苦手なんじゃないかって思ったんだけど」
「そんなことねーよ、俺、甘いモン結構好きだから」
そう言った彼の表情は優しい。
同僚達の中には彼の外見だけを見て怖がる子もいたが、早希はこの厳つい男に好意を持っていた。元々彼女の父親も彼のように大きい人だったからそう言う人に対して免疫があるのだろう。最初に見た時にはさすがに驚いたが、実際話をしてみて彼が優しい人であると分かった。妹想いで、ぞんざいな所はあるけれど、本性は人懐っこい犬のような人だ。
外見のせいで勘違いされて苦労してきたのではないかと早希は勝手に思っていた。
不意に男の手が彼女の頭に伸びる。
「え?」
突然髪を捕まれ彼女は動揺した。
太一は彼女の髪の一房を取り、キスをするように口元に押し当てた。
「ああ、やっぱりあんただ」
「え?」
「シャンプー、変えただろう」
ほんの僅か、彼の厚い唇に笑みのようなものが浮かぶ。
「え、あ、はい。良く分かりましたね」
早希は慌てて彼から離れる。
顔が、赤くなっていないだろうか。
「入ってきた時から花の匂いがしていたんだ。あんたの近くで一層強くなった」
「……嫌いですか?」
「いや、懐かしい匂いだ。俺の昔住んでいた庭の花の匂いがする。俺は好きだ。あんたに似合っているよ」
さらりと言われてしまった。
遊び慣れている風でもありながら、自分だけに特別そうと言われているような気がして、早希は戸惑った。
こんな言われ方をされてしまえば勘違いしてしまう。
だが早希はこの南条太一が掛け値なしで本気で笑った所は見たことがない。微笑んだり、妹の鈴華に対しては目一杯の笑顔を見せるが、どこか無理をしているようでもあった。
だから余計に彼が気になる。
入院患者の兄、それ以上の感情を彼女は抱いていた。
こんな事を思ってもいけないとは思うが、鈴華のもう一人の兄が見舞いに来るよりも、彼が見舞いに来る時の方が嬉しい。彼の事をもっとよく知りたいと思う。
やはり恋をしているのだろう。
話を逸らすように早希は彼を見上げた。
「……な、南条さんってピアス片耳だけしかしてませんよね、何か理由があるんですか?」
尋ねると彼は左耳に触れた。
ループのピアスが僅かに揺れる。
「昔の名残だ。前はもっと沢山ついてたんだが」
「……女の人にあげたんじゃ」
ぶっ、と彼は吹き出す。
早希は真っ赤になった。
「あんた、博識だねぇ」
「すみません、今の忘れて下さい」
「てっきりゲイとか言い出すかと思った。そうじゃないし、贈った女もいない」
彼は笑いを堪えながら言った。
男の人が右だけにピアスをするのはゲイの証だという。彼の右耳にはピアスの存在はなく、それを疑った訳ではない。彼はそれを理解していた。そして、左耳だけにピアスをする意味も知っていた。
知っていて敢えてそうするのは彼女など要らないと言う牽制だろうか。
それとも。
「あ、来てくれたの?」
呼びかけられて太一は振り向く。
「鈴華」
男の顔に今までとは違った優しい微笑みが浮かぶ。
どうあっても、妹には敵わない。
彼の妹は小学校五年生だ。身体が弱く入退院を繰り返している。同年代の子供よりも小柄で幼く見えるが、落ち着いた雰囲気が逆に大人びても見せた。彼も、彼の兄もこの妹のことを溺愛しているように見える。早希にとっては患者の一人でしかないのだが、それでも彼女は礼儀正しく良い子だと思う。
彼女は図書室から借りてきたのか少し難しそうな本を抱えていた。
太一はそれをまとめて片手で掴んだ。
「病室までお持ちします、お嬢様」
気取った彼の挨拶に鈴華はにこにこと笑う。
「何か変」
「そうか?」
「うん、変。……よね?」
彼女に振られて早希は吹き出す。
ふてくされたように太一は口をへの字に曲げた。
本当に良い子だ。病気で怖い思いも沢山しているのに、明るくて、不満や愚痴を漏らすことはない。良い子過ぎて逆に可哀想な位だ。
彼女に早く治って欲しいと思いながらも、ずっと入院していて欲しいと思う自分がいることに早希は辟易とした。
「誰か来ていたのか?」
太一は病室に向かいながら鈴華に問う。
彼女はうんと頷いた。
「クラスメートの男の子」
「最近、良く来るな。どんな奴だ?」
「優しくて良い子よ。少し太一くんに似ているの」
「俺に?」
太一は怪訝そうに彼女を見た。
彼女はくすくすと笑う。
こんな図体のでかい小学生がいるのだろうか。確かに最近の子供は発育が良いと聞くが、さすがにこんな厳つい小学生がいたらさぞかし目立つ事だろう。
鈴華の事だから、何をどう捕らえて似ていると言ったのか分からない。
会ってみた方が手っ取り早いだろう。
「……太一君、腕のところ、どうしたの?」
「ああ、三日ほど前にちょっとな」
彼は安全ピンとビスで止めたジャケットの袖を見せながら言う。
「破けたから留めたんだが、変だったか?」
「そういう服に見えなくはないけど……買い換えたら?」
うーん、と太一は唸る。
「これ、気に入ってるんだよな。嬢が選んだ奴だし」
「今度、外泊許可とれたら買いに行きましょう。腕を組んだら痛そうだもの」
「ん、じゃあ、またお前が選んでくれよ」
笑顔で言うと、彼女はうんと笑って頷いた。
自分の腰程までしか身長のない少女の頭を撫でて思う。
この少女が他の子供達のように自由に出歩けるようになるのはいつだろうか。せめて自分の体力の半分くらい分けてあげられれば。
今はまだ何も出来ない。
(だがいつかは、きっと)
そのためになら、手段を選ぶ必要はない。
優しいこの子は泣くだろう。
それでも、この子の為なら何だって出来る。
何だって。