5 灼熱の炎
「鈴華ちゃん、また明日ねー」
クラスメートに言われて鈴華は微笑んで手を振る。
「うん、また明日」
進級をして三週間ほどが過ぎた。もうすぐ最初の長期休暇であるゴールデンウィークに入る。それまで大丈夫だろうか、と鈴華は胸に手を当てた。
時々、心臓が奇妙な音を立てる。
幼い頃からそうだった。
それが体調を崩す前兆であることを鈴華はよく知っている。
最近ますます頻繁になってきた前兆。それを騙すように鈴華は明るく振る舞った。まるで病気など抱えていないかのように振る舞う。
もう慣れたこととはいえ、病院での生活は辛い。
クラスメート達が見舞いに来てくれるものの、時間が限られている。良く来てくれる男の子も週に二、三回。太一でさえ、ずっと一緒にいられるわけではないのだ。他の子供が授業を受けたり、当たり前に生活している時、病院のベッドの上にいる自分はどんどんと他に置いて行かれる気がした。
女の子達は自分に気をつかって話しかけてくれるけれど、やっぱり自分はお客様なのだと感じる。彼女たちに取って自分は同じクラスの子ではなく、身体が弱くて少し可哀想な女の子なのだ。
それが酷く寂しい。
けれど、時々そんなのもどうでも良くなる。
奇妙な音で鳴る心臓がそんな悩みなど些細なものと嘲笑っているかのように聞こえる。
だから余計に病院にいるのが怖い。
自分と彼女たちの微かな繋がりでさえ断ち切られてしまう気がするのだ。
「っ!」
どくん、と心臓が鳴った。
いけない、倒れる、と鈴華は感じる。
視界が揺らぐ。
このまま倒れる。
そう思った時だった。
彼女の身体を支える腕が差し伸べられた。微かに甘い煙の匂いがした。
「……運がない」
声は男のものだった。舌打ちをして呟いた言葉だったが、それは鈴華をせめるものではなく自分を嘲るような笑いを含んだ声。
「大丈夫か? すぐに救急車を呼ぶ」
「だめ」
鈴華は言う。
逆光になって男の顔は見えない。だが、男が怪訝そうに首を傾げたのが分かった。
「救急車は、呼ばないで」
病院には行きたくない。
「だが……」
「お願い……休めば良くなるから」
男は一瞬躊躇った素振りを見せた。だが、すぐに出しかけていた携帯電話を懐にしまい込んだ。
「分かった」
頷くと男は鈴華の身体を抱き上げる。
「そこの公園で休め。何か欲しい物はあるか?」
何も、と鈴華は答える。
そうか、と男は短く答えた。
斎よりもう少し年齢が上だろうか。太一に比べて細身のせいか、とても身長が高く見えた。
男は鈴華をベンチの上に寝かせると自分の上着を掛ける。
誰だろうか。何処か懐かしい。会ったことがあるような気がした。
「少し、熱があるのか。家の者に連絡を取った方がいいだろう。自分で電話はできるか?」
鈴華は頷いて自分の携帯電話を取り出す。
太一は今どこだろうか。
彼ならこのくらいなら斎に内緒にしていてくれる。心配し過ぎて入院の手続きをとったりしないだろう。だから迎えに来るなら彼がいい。
電話を掛けると太一は少し心配そうな声を出した。大丈夫、と伝えると「急いで向かう」と返事が返った。
「冷やした方が楽か?」
僅かに冷えたものが額に当てられる。
電話している間に買ってきたのだろうか。ハンカチにくるまれたそれは缶ジュースのようだった。
「ありがとう……ございます」
受け取り言うと男は少し笑う。
何かを懐かしむような優しい顔だった。
男はベンチの空いたスペースに腰を下ろし腕を組んだ。鈴華の位置からちょうど彼の右手が見える。爛れたような引きつった奇妙な傷跡があった。火傷の跡だった。
心がざわついた。
何か知っているような気がした。
(……この人を? それとも、この火傷を?)
鈴華はじっと男の手を見つめる。
男は気が付いたようにさっと手を隠した。
(傷のある男……ああ、あの時の)
鈴華は微かに覚えている記憶を辿る。
久住明弥を尾行していた男がそんなような事を言わなかっただろうか。手に傷がある男に頼まれたと。
鈴華は男の顔を見る。
(こんなに優しそうな人が? まさか)
自分を気遣ってくれるような優しい人が、明弥のような優しい人を尾行させたりするだろうか。鈴華にはとてもそう思えなかった。だが、この人がそうなら「運が悪い」と呟いた理由が繋がる。
あの尾行していた男の人からあの時明弥の側にいたと報告を受けているのかもしれない。そうなれば言葉の意味が分かる。
(でも、ならどうして?)
「おじさん」
「何だ?」
「誰にも言わないわ。だから教えて。……私を知っているの?」
男は静かに鈴華を見つめた。
怪訝そうにするのでも、驚いた風にでもするわけではない。まるでその質問を覚悟していたかのような表情だった。
「ああ、知っている」
「……おじさん、誰?」
「俺は」
何故だか酷くざわついた。
心が。
何処か、疼くような感覚。
耳を塞がなくては。
自分でした質問。
でも、聞きたくない。聞いたら何かが起こってしまう。
いや、
終わる?
「久住有信だ」
彼女は目を見開いた。
焼き切れた。
ギリギリで繋がっていた回線が、激しい炎で焼き切られたように。
そこで彼女の記憶は、終わった。