3 水守という女性
車内に買ったばかりの地図を広げて道を確認しながら、伊東は指先の感覚だけで携帯を操作する。日に何度もかけることがあるために、一々確認をしなくても指先がその数字を覚えている。
短縮で0番。
誰よりも先に登録した番号だった。
携帯電話を顎と肩で挟み込んで固定し、地図でルート確認をする。
ややあって携帯がふつ、と鳴った。
『……伊東君?』
眠そうな声だ。
少し不機嫌そうな愛の声に伊東は少し笑う。
「起こしましたか?」
『いいえ、寝る暇もないわ。どうかしたの?』
「これから三班の植松と一緒に長野に向かいます」
『長野? どうして?』
伊東は運転席に座った巡査に出るように合図を送る。
新人刑事は頷いて車を発進させた。
本来班の違う彼とはコンビを組むことはないが、中津が連れて行くようにと指示した為に連れて行くことになった刑事だった。名前は植松駿介という。まだゼロ班どころか刑事部の何も理解していなさそうな新米は、現場もろくに分からないために、先輩に言われた事だからとただ従っている様子があった。
中津は誰であっても単独行動を嫌う。伊東に彼を付けたのはそのためであり、右も左も分からない若手を付けることで伊東の無茶な行動を抑制しようとしているのだろうと思う。伊東自体まだ若手と呼ばれるような年数しか働いていないが、愛の側にいたおかげで勘も能力もベテランに負けないほどになっていた。そして彼女の側にいたせいで、無茶なことをする面も出てきてしまっている。それは自覚済みだ。
伊東は必要なページを開きシートの横に差し込むと、シートベルトを締めて電話を持ち直した。
「柴田と言う男ですが、どうやら戸籍の人物とは別人のようです」
『どういうこと?』
「ここ数年、少なくともあのカフェが開いた八年前からは遺体で発見された男が柴田貞夫と名乗っていたことには間違いありませんが、柴田貞夫として戸籍を持っている人物ではあり得ないんです」
伊東はかいつまんで説明をする。
戸籍にある柴田は高校生の時に事故に遭い、左足に金属が入っているはずなのだ。だが、遺体で発見された男にはそれらしいものは無かった。
つまり、どこかで本物の柴田と、遺体で発見された柴田は入れ替わっていると言うことだ。
『あるいは、何らかの理由で柴田本人が死に、その戸籍を今回死んだ柴田が利用していた』
「そうです。一応俺が簡単に調べましたが、時間も足りませんしここから先のことは中津刑事に任せました。近く連絡が入るはずです」
『そう。それで、どうして長野なの?』
「柴田と南条の接点を調べる際に、興味深い名前を発見したんです。超常現象に関する論文に連名で記されていた名前なんですがローマ字で‘レイカコタケ’と」
『レイカ?』
電話の向こうで愛の顔色が変わったのがわかった。
南条斎に関しては嫌と言うほど資料を読んでいるために分かっているだろう。彼の母違いの妹「南条鈴華」と同じ名前だ。引っかからない方がおかしい。
『レイカという名前の子が日本に何人いると思うの? ……と、言いたいところだけど、この状況で出てくる名前だから無関係なんて思えないわね』
「はい。ですから調べました。面白いことが分かりましたよ」
『面白いこと?』
「何も分からないんです」
『うん?』
伊東は植松に左折するように指示する。
「論文に書かれていた所属大学を調べてみたのですが、コタケレイカという女性に関しては出てきませんでした。念のため、論文の提出された前後数年調べましたが特に何もありません。まるでそんな人間は存在しないかのようでした」
『誰かが論文提出の為だけに使った偽名……それとも』
そうです、と伊東は頷く。
「何者かによって記録を改竄された可能性もあります」
もっと徹底的に調べれば大学の記録に改竄された形跡などを発見出来るかもしれない。残されていたデーターを見ただけのため、全てを調べ尽くしたとは言いきれない。場合によっては徹底的に調べ上げる必要もあるだろう。
『それで、どうして長野なの?』
三度目の質問だった。
伊東はようやくそれに答える。
「その論文の連名で記されていた名前の人物が長野にいるようなんです。こちらの人物に関してはあっさり出てきました」
『名前は?』
「ミモリサヨコです。水を守る小さい夜の子で水守小夜子です」
水守、と呟いて愛が怪訝そうな声で言う。
『何処かで聞いたことがあるわ』
「はい、勇気くんが言っていた南条太一の件で助力してくれたという女性と同じ苗字ですね」
『また同じ名前ね。偶然の一致かしら……ああ、ちょっと待って』
電話の向こう側で何か話し声が聞こえた。
おそらく藤岡がいるのだろう。
ややあって電話に出たのは藤岡の方だった。
『もしもーし、伊東くん? その水守って人、長野の真ん中あたりにいる人?』
「ええ、現在の所在地は中信地区です」
伊東は手帳にメモをした住所と地図を確認しながら言う。
『うん、じゃあ間違いないかも』
「間違いない?」
『その人、ギョーカイじゃちょっとした有名人よ』
「芸能人ですか?」
『ううん、占い師なんだけど、そっちの方面での有名人なの。テレビとか出ないから一般知名度は低いけど。私も会ったことないから本物かどうかは分からないけど、相当‘当たる’ってのと、変わり者で有名』
「変わり者……」
『ちょっと、私に言われるようじゃおしまいとか思ったでしょう?』
伊東は苦く笑う。
実は少しそう思った。
「別にそんなことは思ってもいませんが」
『あーあ、私の心はいたく傷ついたわ。ってわけで、お土産はワインがいいわ。信州ワイン! 出来れば貴腐ワイン』
「……テーブルワインで良かったら買っていきます」
『やった! 愛に代わるわ』
また電話の向こう側で会話が交わされ、ややあって愛が電話に出てくる。
『伊東君、一応公務なんだから忘れないでね』
「……はい」
『と言うわけで、私はアルコールなしで、栗羊羹と栗鹿の子』
伊東は吹き出した。
たまに上司的な事を言ったかと思ったら次の言葉はこれだ。彼女らしいといえば彼女らしい。
「分かりました。探してきます」
『お願いするわ。……伊東君』
「はい?」
『無茶はし過ぎちゃだめよ』
「はい、もちろんです。愛さんもお気を付けて」
上司へと言うよりは、個人的な気持ちも込めて言うと、向こうから苦笑したような息が聞こえた。伊東はそれを聞かなかったフリをして電話を切る。
車は一般車道を抜けて高速道路へとさしかかっていた。