2 星を読む人
「注文入ります、パンケーキ一つ、ブレンドN一つ」
注文書を読み上げるとすぐに厨房から返事が返った。
明弥はボードに注文書を貼りつけて、ダスターを手にテーブルの片付けに向かう。
勇気の紹介で珈琲屋「orange猫」のアルバイトに入って三日が過ぎた。まだ不慣れではあるが、仕事は大分覚えられたと思う。接客の仕事は不向きかと思っていたが、思っていたよりも楽しかった。従業員の人柄も良いし、今のところ質の悪い客に会ったことはない。良い店だな、と思う。
「久住君、それ、私がやるわ」
声を掛けられ、明弥は振り向いた。
同じアルバイトの鮫島泉だった。アルバイトとはいえ、明弥の先輩であるし仕事も早い。明弥に仕事内容を教えてくれた人も彼女だった。本当ならフロアチーフになっていてもおかしくないくらい働いている人だったが、夜間学校に入っているためにフルで働けないからアルバイトという形を取っているそうだ。彼女が何故夜間学校に通っているのかは触れてはいけないことがらのように思えた。
「まだ休憩取っていないでしょう? 今ちょうどお客さん少ないから少し休んで」
「あ、はい、ありがとうございます」
お礼を言って明弥は彼女にダスターを渡した。
泉は明るく気さくな人だ。彼女に「覚えが早くて助かる」と言われたが、それは彼女の教え方が上手いからだと思う。
「……惚れるなよ」
「うげっ!」
後ろからヘッドロックをかけられ、明弥は覚えず奇妙な声を上げた。
「さ、鮫島さん」
「俺の妹だ、お前にはやらん」
「えっと……」
反応に困って明弥は鮫島を見上げる。
キッチンで働いている鮫島は泉の兄だ。結構体格が良く、人からは怖がられそうなタイプだが、太一に慣れたせいか怖いという印象はなかった。それにこの店で出る繊細なお菓子を作っているのは鮫島だ。怖がるよりもまず感動したのだ。それに、ああいった繊細なお菓子を作る人はきっと優しい人なのだろうと思っている。
勇気には「お前は誰でもいい人にしてしまう」と笑われそうだが、純粋にそう思った。
「パンケーキは、どうしたんですか?」
「じゃんけんで負けた吉岡が焼いている」
後方で吉岡の苦く笑ったような声が聞こえた。
羽交い締めされているために厨房の様子を窺うことはできないが、もう一人のキッチンスタッフである吉岡が苦笑しながらパンケーキを焼いている姿が想像できた。厨房には時折女の人がいることもあるらしいが、基本的には鮫島と吉岡の男二人だ。忙しい時間は手の空いた方が作るのが当たり前だが、暇な時はこういう遊びをしているようだ。明弥が働いている三日の間もこういったやりとりを何度か目撃した。
「泉はああいう性格だから、優しくされた男が勘違いする。だが、残念だったな、泉は誰に対しても優しいんだ」
「分かります。本当に優しい人ですよね」
「……お前、話通じてるか?」
呆れたように言われ、明弥は肩を竦める。
「えっと、鮫島さんが泉さんをどれだけ大切に思っているかは分かりました」
「お前なぁ」
明弥を羽交い締めにしていた手が緩み、明弥は彼の腕から脱出をする。
くすくすと笑い声を上げたのは吉岡だった。
焼き上げたパンケーキを盛りつけながら彼は楽しそうに言う。
「久住君の方が上手だ。望の負けだね。俺、望の脅しに動じない子、久しぶりに見たよ」
「動じないっつーか、アホなんじゃねーの? 危機意識ないっつーか」
よく言われる事に明弥は苦笑いを浮かべる。
危機意識があるないではなく、本当に鮫島はいい人なのだから警戒する必要はないと思うのだが、言えば呆れられそうで止めた。
「新しく入った子いじめたら駄目だろ? そうじゃなくても望のせいでこの店人手不足なんだから」
「俺のせいじゃねーよ」
むっつりとして鮫島は冷蔵庫からトッピング用のアイスとフルーツを取り出して作業台の上に乱雑に置いた。
「店長が店舗増やしているせいだろう? ここ数年でどれだけ店舗増やせば気が済むっつーんだよ。せっかく教育した連中すぐに連れ出していい迷惑だっての」
「だけど、その分俺たちの給料いいじゃないか」
「そうだけどよ……」
給料はどのくらいなのかは聞けなかったが、アルバイトの研修中の明弥でさえそこそこの時給を貰っている。働き次第では昇給もあるのだと言っていたから他に比べて待遇もいいのだろう。
不況だと騒がれている中、職場の雰囲気も待遇もいいという良い場所を紹介して貰ったと思う。
「ところで久住君は好きな子、いるの?」
「えっ? え、な、何ですか突然!」
何の脈略もなく突然話を振られて明弥はどぎまぎとする。
吉岡はにこにこと笑いながら、慣れた手つきでトッピングをしていく。鮫島もそうだが、彼らの作業は細かい。メニュー自体は普通の喫茶店で出てくるものと変わらないのだろうが、仕上がりは彼らの作ったものの方が断然綺麗だった。
「好きな子いるとか言えば望もちょっかい出さないかなって思って」
「何か別の意味に聞こえないか、それ?」
わざとなのか吉岡は鮫島のセリフを無視して続ける。
「ほら、一日目の時来た可愛い子いただろう? あの子とかは?」
「え? ああ、トモちゃんですか? そう言うのじゃないですよ、だってトモちゃんは……」
からん、とドアベルが鳴った。
明弥は話を中断すると、二人に軽く挨拶をしてからすぐに接客に向かった。
「いらっしゃいま……」
言いかけて明弥は動きを止めた。
髪の色から靴の色まで全部を黒でまとめた女性だった。
驚いたのは喪服のような衣装のせいではない。
彼女は怪訝そうに明弥を見返す。明弥は慌てて謝った。
「す、すみません、水守さんですよね?」
「そうだけど……何処かで?」
「えっと、僕、久住明弥です」
名乗ると水守はああ、と微笑む。
そう言えば彼女と直接言葉を交わすのは初めてだ。最初に出会った時は彼女は気を失っていたし、二度目三度目は共に電話での会話だった。
それなのに何度もあっているような印象を受けるのは、彼女の存在感のせいだろう。
「ここで働き始めたの?」
「はい、アルバイトで」
「そう。それじゃあこれから何度も会うことになるわね。私、ここ良く来るから」
「そうなんですか? それじゃあ改めてよろしくお願いします……ってのも変か」
明弥は頭の後ろを掻いた。
どうもこう言う時にどう言えば良いのかが判らない。
彼女はくすりと笑う。
「それでいいと思うわ。貴方と私は縁が浅くはないようだから」
「え?」
「巡り合わせ、よ。私が必要な時に貴方がいて、貴方が必要な時に私がいた。それは偶然でなく必然。そうある以上、貴方と私は初めから巡り逢う運命にあったの」
「えっと」
相変わらず分からない物言いをする人だ。
意訳すれば「これから仲良くしましょう」というところだろうか。
ともかく、と明弥は彼女を席に案内する。客と話し込んで入り口付近にずっといるわけにはいかない。
案内された席に座りながら彼女は苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、回りくどい言い回ししか出来なくて。職業病」
「職業?」
そう言えば彼女は占星がどうのと言っていなかっただろうか。
彼女はうん、と頷く。
「占い師よ。占いというのはいくつかの未来の中から一番可能性の高い結果を相手に伝えるの。けれど、口にした時点で未来が確定してしまう場合も少なくないわ。だから、結果を伝える時は良い悪いは関係なくはっきりと伝えないのが通例なの」
「それでそう言う言い回しをするんですね」
「そう、だから回りくどいと言われてしまうわ」
水守はくすくすと笑う。
こうして笑っていると明弥と同じくらいか少し上か。若いように見えるけれど、落ち着いた話し方を聞いていれば随分と年上のようにも思えた。
女の人に年齢を聞くのは失礼だろうが、何だか話し方動揺、年齢も掴めない人だ。
「ところで、明弥さん」
「はい?」
「注文いいかしら」
「あ、すみません、何になさいますか?」
いつもの、と彼女は笑う。
泉に聞けば分かるだろうか。分からなければもう一度聞きに来ればいいことだ。
はいと頷いて明弥は厨房の方へと戻っていく。
不意に思い出して明弥は立ち止まった。
「星を、読める人?」
勇気の父親が言っていた人物だろうか。
振り返ると水守は自分のバックから取り出した文庫本を読みふけっている。
明弥は首を振る。
今は仕事中だ。
本当に水守との縁が浅くないのなら、また話をする機会もあるだろう。ともかく今は彼女の注文を伝えに行く方が先だと明弥は急いで厨房の方へと向かった。