13 もう一人の巫覡
安藤は井辻を助けてくれてありがとうと明弥に言った。
どうして彼が警察に「井辻が犯人だ」と言わなかったのか。その答えはそこにあるような気がした。
彼との短い面会を終えて、トモミを家まで送ってから明弥は家路を歩いた。
不意に何か呼ばれた気がして彼は立ち止まった。
誰もいないはずの道に誰かが立っている。
夕陽に照らされてぼんやりと浮かび上がった影には何となく覚えがあった。
「……勇気の、お父さん?」
問いかけると、その影は人の形を作る。
どことなく勇気と似た雰囲気のある人だ。いくつで亡くなったのかは知らないが、父親と呼ぶには若すぎる印象を抱く。目が細くて、優しげな笑みを浮かべた人だ。
「うん、そうだよ」
「あ、喋れるんですね」
「君とは波長が合うから、声が届きやすい。もっとも、もうすぐ眠らなきゃいけないから長く話せないけれど」
彼は髪を掻き上げる仕草をする。
今、明弥は幽霊と話している。
奇妙な気分だった。
「えっと……成仏しちゃうって事ですか?」
「うーん、ちょっと違うかな。僕は勇気の父親だけれど、それだけじゃないんだ。イワサキマサヨシとしての僕は力を使いすぎているから、回復するまで暫く出てこれないってことだよ」
今ひとつ言葉が分からず明弥は首を傾げた。
「えっと、勇気には、会ったんですか?」
尋ねると勇気の父親は寂しそうな笑みを浮かべた。
「会えないんだ」
「え?」
「……近づき過ぎると、僕は消えてしまう。そういう約束だから」
約束、と明弥は口の中で反芻する。
詳しくは分からないが、そう言う話は何となく知っていた。何か大きな力を得るために、何かを犠牲にして成り立たせる。それは物だったり、魂だったり、想いだったり、そして行動と言うこともあるのだろう。
「寂しくないんですか?」
会いたいだろう。
自分の息子に。そして勇気も父親に会いたいはずだ。
「寂しいけれど、自分で選んだ事だからね。ただ、勇気は‘見える’子だからね、僕が会いに行かないことで自分のことはどうだっていいんだ、って思っていたからそれは少し辛かったかな」
「あの、じゃあ、伝えますか? 勇気だってそう言うわだかまりがない方がずっと……」
彼は首を振った。
その姿が少し揺らいで見えた。おそらく本当に時間がないのだ。
「必要ないよ。そのことは勇気自信が自分の中で解決している。それに、あの子の側にはもう父親に代わる人がいる。だからいいんだ。何より、君がいる」
「僕……ですか?」
「君はとても清らかな力を持つ子だ。君がいる限り、あの子はあの子であることを忘れない。だから、僕はもう必要ない」
「そんなことは……」
ない、と言いかけて明弥は口を噤んだ。
慰める言葉をかけるのは簡単な事だ。明弥の言葉は気休めにはなるだろう。けれど、彼に、勇気の父親にそんな簡単な言葉をかけたくはなかった。
彼は気持ちを汲んでくれたように微笑んだ。
「死んだ人のこといつまでも忘れずにいることと、その影を追いかけ続けることは同異議ではないよね。……でも、生きているなら別だ」
「え?」
「勇気の側で君のことも見ていたから分かる。君の父親、生きているよ」
その言葉に少し心がざわめく。
殆ど確信に近かったけれど、誰かの口から確証めいた事を言われると動揺した。
「彼のしようとしていること止めさせた方が良い。僕に言えるのはこのくらいだけど、星を読める人を捜しなさい。その人が、力になってくれる」
「星を読める人?」
「……ごめん、時間だ」
彼の姿がぼんやりと薄らいでいく。
夕焼けの赤が、夜の色に飲まれて一面を薄暗い紫に染め上げる。
「勇気を助けてくれてありがとう。それと、くれぐれも気を付けて。君たちは強い星の元に生まれているけれど、それが必ずしも良い方向に導くとは限らないから」
だから気を付けて。
彼はそう言い残して暗闇に飲まれて消えた。
※ ※ ※ ※
「懐かしいものを見ていらっしゃいますね」
坂上に言われ、斎は頷いた。
地下研究室の一室。ガラスで仕切られた向こう側には命を助けるための機械に繋がれて井辻の存在がある。
モニター脇にある机の上には写真が散らばっていた。
その写真には何人もの男女が映っている。川辺で釣りをしたり、テントを張ったりする男女の姿。十年以上前のキャンプの時の写真だ。まだ大学に入って間もないくらいの斎の姿がある。少し険のある顔つきだが、不器用な笑いを浮かべている姿だった。
暇さえあれば写真ばかり撮っていた友人が撮影したものだ。友人とはいえ、彼は斎より十以上も年上だ。今どこで何をしているのか知らない。彼はデジタルカメラが主流になりつつあった頃でも妙にフィルム式のカメラにこだわっていた。当時から古く、修理出来る技師もいないため自分で修理しながら使っていた。今もあの古いカメラで撮影しているのだろうか。
写真を見つめながら斎は答える。
「確かめたいことがあったんです」
「久住くんの事ですか?」
坂上は机の上に紅茶を置きながら、散乱した写真一枚手に取った。
「そうです。坂上も思いましたか?」
「はい、正直驚きました。あの方々のご子息なんですね」
「そう……彼女の、子」
坂上の手にある写真には女性の衣服を着て微笑む久住明弥の姿がある。いや、それは明弥本人ではない。彼によく似た本物の女性だった。年齢はちょうど同じくらいだろう。本人と見間違うほどよく似ていた。
以前から似ているとは思っていた。
むしろ確信めいたものはあったのだ。久住明弥が彼の知る「久住」と写真の女性の子供であることを。だが、両親のどちらもいなくなった今、それを物質的に確かめる手段は無かった。だからほんの少し他人のそら似である可能性を疑っていたのだ。
けれど、彼の女装姿を見た時に確信した。まるで本人と見間違える程にそっくりな明弥の姿。これで血縁関係がないと言える方が冗談を言っているようでもあった。
斎は懐かしむように写真の彼女に触れた。
「明弥くんの‘明’はアスカさんから頂いたんですね」
はしゃいで上半身裸になった男の腕にマジックで「明香命!」と書いてある。それを見つけた彼女が恥ずかしそうに顔を覆っている姿が映っている。その奥には若い斎が呆れたような表情を浮かべている。
もう二度と戻れない懐かしい記憶。
突然、斎の前にあるモニターが警告音を発した。
一瞬驚いた表情を浮かべたものの、慌てる様子無く、斎は立ち上がり、ガラスで仕切られた隣の部屋へと向かう。
「後で紅茶淹れなおして下さいね」
「はい、心得ました」
坂上もまた慌てる様子無く、斎に頭を下げる。
部屋のベッドに拘束され、もがき苦しむような井辻の姿が見えた。
暴走する弱いウィッチクラフトが奇妙な光を帯びて井辻から四方八方へと広がる。それを避けようともせず斎はベッド脇にある針のない注射器を手に取る。それに白い薬剤の入った小さなガラスタンクを取り付ける。
彼は井辻の腕を掴むと、注射器を押しつけた。
高圧で吹き付けるような音と共に、彼の身体の中に薬剤が注入される。
暴れ回っていた彼の力は次第に力を失い、やがて正気を取り戻した様子の少年が斎の方を睨み付けた。
「お前は誰だ……!」
「目が覚めましたか、井辻正伸くん。私は南条斎と申します」
彼は訳が分からないと言う風に眉根を寄せた。
斎は優しく笑いかける。
「貴方の能力は危険なものと判断されました。それ故、私が保護をしています。言っている意味が、分かりますね?」
井辻は動揺した風に目線を逸らせた。
彼は周りの悪意を寄せ集め、凶行に及んだ。度が過ぎたのは周囲の影響があるとしても根本の原因は彼自身にある。
ようやく自分の理性を取り戻した彼は自分のしでかした事に驚き怯えているのだろう。そしてこれから自身がどうなるのか、それに対しても怯えていた。
くすり、と斎の口から笑いが漏れる。
「得た力が強大であればあるほど、人は己に溺れる。それは貴方に限ったことではないでしょう。それを気に病むことはありませんよ」
「……どうするつもりだ」
「そうですね、もうしばらくは検査させて頂きますが、体調が回復したら、別の土地に引っ越すことをおすすめします。ここでは貴方も他の方も住みにくいでしょう」
「な……っ?」
井辻は驚いたように声を上げた。
「あんな事をしたのに、ほっといていいのかよ!?」
「あんな事、と理解しているのなら問題ないでしょう。そもそも、貴方にはまだ早すぎた。それだけの事なんですよ」
斎は彼の拘束を解く。
少年は起きあがって不思議なものを見るように斎の方を見た。
斎は彼を見返した。
びくん、と井辻の身体が痙攣を起こしたように震える。
「だから忘れなさい」
斎の瞳は見開かれている。
井辻の視線はそれに吸い寄せられ、次第に虚ろなものに代わっていく。
「ウィッチクラフトの事は忘れなさい。真実その力が必要となるその時まで、貴方はその力に触れることも、思い出すこともない」
蓋を開け中に閉じこめ、もう一度錠をかける。そしてそれを開くための鍵はどこかに捨てられた。だからもう開くことはない。
斎は微笑みを浮かべた。
「お休みなさい、井辻正伸くん」
どさり、と力を失ったように井辻の身体がベッドの上へと倒れ込んだ。