3 偶然でなければ運命
脳を働かせると糖分が欲しくなると言うのは本当の事らしい。
貰ったチョコレートを食べながら明弥は英語の問題集を相手に奮闘していた。英語の問題自体は難しいことはない。ただ、単語を覚え切れていないために苦労するのだ。分かっているが、今は単語を覚えるよりも先に問題の傾向に慣れたかった。
トモミから貰ったチョコレートの中に同梱されていた手作りのお守りを傍らに置いて彼は英文を読み始めた。
あの火事から三日が過ぎる。
明弥の脳にはもうあの火事と事故の記憶は薄らいでいた。幼い頃から何かと事故に巻き込まれやすい体質の明弥にしてみれば、自分が巻き込まれた訳ではない事故のことはニュースで見た事件とあまり変わらない。興奮して勉強が手に付かない程のことでもないのだ。
どたどたと階段を上がってくる音が聞こえて明弥はペンを止めた。
ノックもせずに突然ドアを開かれても彼は驚きもしなかった。
「ノックぐらいしなよ、マサ」
振り向いて言うと弟の政志は悪びれる様子もなく頭の後ろに手を回した。
今年の四月で小学校六年生になる政志はちょうどやんちゃ盛りの年代だ。注意してもあまり効果ないが、明弥は根気よく続けることに決めた。
政志は少し口を尖らせて言う。
「兄ちゃんさー、そんなに勉強がんばらなくても良いだろう?」
「西ノ宮はそんなに楽じゃないんだよ」
「ランク落とせばいいのに。最近兄ちゃん勉強ばっかでつまんねーの」
言って政志はベッドに座る。
構ってほしいのか、と明弥は息を吐く。
確かにこのところ受験勉強ばっかりであまり政志と遊んでいない。受験が終わったら埋め合わせしようと思うけれど、それまでストレスを溜めさせてしまったら可哀想だとも思った。
兄弟には姉もいるのだが、少し年が離れているのと性別の関係もあって、政志は自分に良く懐いている。時々憎まれ口を叩くが、やっぱり甘えてくる弟は可愛いものなのだ。
「変更できないしね。それに西高じゃないと意味ないんだって」
「……トモミ姉ちゃん?」
政志は机の上のチョコレートを勝手につまみながら言う。
トモミが行くから自分もそこに決めたのか、と問いかけているらしい。からかい半分、ご不満半分と言うところか。
何を考えているのか想像がついて明弥は苦笑した。
「そんなんじゃないよ」
「べっつにいいけどね」
拗ねたような声。
トモミと政志、どっちが大切なのか、と問われているようだった。
ご機嫌取りも大変だが、別に嫌でもないのだから厄介な所だ。
「映画」
「え?」
「春のアニメ祭り、俺の入試終わったら見に行くだろう?」
にへら、と政志の顔が緩んだ。
「兄ちゃんがどうしてもって言うならつき合うよ」
憎まれ口だが、緩んだ顔では憎さは感じられなくなってしまう。
どうしても、と明弥は笑った。
「あ、そうだ、兄ちゃんミモリって女の人知ってる?」
「ミモリ?」
覚えが無い。
「知らないけど、その人がどうかした?」
「兄ちゃんに電話」
「こらこら、そう言うのは先に言えって」
「忘れてた」
べ、と舌を出す弟の頭を小突いて、明弥は一階の電話の所まで急いだ。
相手を随分待たせてしまったのではないだろうか。
階段の最後の数段を踏み外し、半ば滑り落ちるような形で一階に下り慌てて受話器を上げた。
「すみません、お待たせしました。明弥ですけど」
ばたばたした音を聞かれただろうか。
くすり、と笑うような声が受話器の向こう側から聞こえてきた。
『久住明弥さん?』
柔らかな女の人の声だった。
明弥は戸惑った。
「あ、はい……えっと……」
『私、ミモリユリコ、水の守る神祐の里の子で、水守祐里子と言います。この間救急車で運ばれた時、付き添って下さったそうで』
「え? あ、ああ……あれ、でも何で電話番号……」
『病院の方に聞きました』
「ああ、そうか」
明弥は思い出しながら呟いた。
三日前の事故の時に、明弥達のすぐ側で倒れた女の人だ。救急隊員が駆けつけた時に、たまたま側にいた明弥が姉弟と間違われて病院に付き添うことになったのだ。あの時確か、一応身元の確認のために名前と住所電話番号を書いた。
「えっと、その……目が覚めるまでいられなくて……大丈夫でしたか?」
『はい、おかげさまで』
よかった、と自然に言葉が漏れた。
電話の向こうの彼女はどこか微笑んでいるような声で言った。
『それで、お礼がしたくて電話したんですけど』
「あ、そんなこと気にしないで下さいよ。別にそんなつもりだった訳じゃないですから」
『そう言うと思っていました』
彼女は当然というように言って続けた。
『でも、それでは私の気が済まないんです。だから、‘一度だけお助けします’』
「………はい?」
『あなたの声を聞いて確信しました。あなたは必ず私の助けが必要になる。ですからその時に。もちろん無料ですよ』
「あの、話が見えないんですが、水守さんは弁護士とか探偵とかの仕事をされているんですか?」
いいえ、と彼女は答える。
明弥は首を傾げた。
彼女の言っていることが全く分からない。
『いずれ、全て分かります。なら、少し謎の方が楽しいと思いませんか?』
「え? あの……」
少しどころの謎ではない。
水守の話はどうも要領を得ないし、分かりにくい。助けが必要になるとはどういうことで、どうやって水守が助けるというのだろうか。
『出会ったのが偶然でなければ運命です。……それではいずれ、こちらから連絡をします。どうそ、お気を付けて』
「え、ちょっと!」
がちゃん、と一方的に電話が切れた。
受話器の向こう側からはツーツーという電子音しか聞こえてこない。
ひょっとして、少し特殊な思考の持ち主と関わってしまったのだろうか。別に嫌な感じのする人ではなかったが、正直戸惑ってしまう。
明弥は受話器を置いた。
考えても答えが出ないなら考えない方がいい。
からかわれたのならそれで良いし、そうでないのなら彼女の方からまた連絡をくれると言った。だったら考えるだけ無駄なことだ。
「……さて、勉強し直すかな」
彼はぐっと背伸びした。
こう言う時は、あまり気にしない性格で良かったと思う。
だが、言葉の裏に隠された意味をもう少し真剣に考えていればと、後々後悔することになる。その時の明弥には知る術もなかった。