10 蒼は翻る
『明弥!』
叫ばれてはっとする。
頭の中に直接響いてくるような太一の声。
井辻は酷く混乱した様子で頭を押さえていた。
先刻までの彼とは違い、何処か正気を取り戻しつつあるように見えた。
「う…ぁ…? 俺は何で……」
「井辻君」
「み、見るな! 俺をそんな目で見るな!」
「!」
強い風のような衝撃が明弥達に向かって吹いた。
しかしそれは立っていられない程のものでもなかった。
井辻は何か呻くような声を上げながらふらつくように二歩、三歩と動いた。
太一の声が響く。
『‘blue’を打て。使い方は分かるな?』
「う、うん」
「ブルー?」
勇気が訝しげに振り返る。
間髪入れずに太一が唸る。
『説明は後だ! 勇気、お前は明弥が安全に近づけるようにサポートしろ。あいつは俺が押さえる』
勇気の瞳が確認するようにこちらを見る。
明弥は真っ直ぐ瞳を見返して頷いて見せた。
その手には斎から借り受けた水鉄砲のような注射器が握られている。討てば一時的に井辻のウィッチクラフトを鎮める事ができるという薬剤が入っている。太一の時とは違い、タンクに入っている薬剤の色は青。便宜上‘blue’と呼ばれていると斎は話した。
この注射器は高圧で打ち込む事によって針無しで薬剤を注入出来るものだ。ただ、麻酔銃のようなものとは違い、密着させて討つ必要がある。
だから、明弥は井辻に接近する必要があるのだ。
「行けるのか?」
勇気が尋ねる。
明弥はもう一度頷いた。
「やるよ。見ているだけ何て……足手まといになるしかないなんて、嫌なんだ」
明弥には太一のような強靱な肉体があるわけでも、勇気のように立ち回れる訳もない。インパクトの力も自分で制御出来ないのだから意味がないし、制御出来たとしてもそれで何が出来るのか咄嗟に機転が利かないだろう。
だからといって勇気に全てを任せて足手まといになっているのは嫌だった。
「久住は足手まといなんかじゃない」
「え?」
「だけど、そう言うことならお前に任せる。……シロ、路の穢れを祓え、久住に怪我をさせるな!」
うぉーん、と遠吠えをするように白い獣が声を上げる。
その毛並みから青白い光が放たれる。
その青白い光はちょうど明弥達の位置から井辻までの路を一本照らしたように明く光っている。
行け、と勇気が促す。
その道の上を進め、と言っているのだ。
「うん」
頷いて明弥は駆ける。
「う……あぁあああ! 来るなぁぁぁ!!!」
井辻が叫ぶ。
同時に彼の周りの土が盛り上がった。
それは塊となって明弥の元へと迫る。
「‘護れ’!」
勇気が叫ぶ。
瞬間目の前の土塊は激しい音とともに粉砕された。
明弥は粉塵をかいくぐり走る。
「来るなぁぁ!」
二撃目の塊。
白い狼が跳躍し、顎でかみ砕く。
太一が井辻にのし掛かる。
赤毛の狼が見えない力で高く飛ばされる。
入れ替わるように白がのし掛かる。
「白き子 其れ神の斎串なり‘達其道急急如律令’」
白の毛並みが再び青白い光を帯びる。
立ち返った太一が上から更に押さえ込むように飛び乗った。
「霊縛!」
抵抗するようにもがいていた井辻が一瞬痙攣を起こしたように震えた。
明弥は大小二匹の獣によって押さえつけられている井辻の腕に向かって注射器を押し当てる。
引き金を引くようにすると、青い液体が一気に射出される。
「う……? ああ?」
井辻が呻く。
その瞳が、睨むように明弥の方を見る。
「久……ズ……ミ」
恨んでいるのか、求めているのか。
それすら分からない苦しげな声。
荒い息を整えながら明弥はその場に座り込んだ。
ぽたり、と涙がこぼれる。
ほっとしたからではなく、ただ悲しかったのだ。
「同情なんか、するな! 同情なんか!」
井辻が払うように二匹を押しのける。
よろめきながら立ち上がった彼は腕を大きく振った。空気を切る音だけがむなしく響く。
「くそっ! 何で……何で出ないんだ! 何でっ! ……っぐ!?」
「井辻君!」
ごほ、と咳き込む井辻。
覆った口と手の平が赤く染まっていた。その場にへたり込み、苦しそうに胸を押さえた。
「……無茶、し過ぎたんだ」
左足を引きずりながらゆっくりと勇気が井辻に近付く。
心配そうに白い狼が彼の足下で鼻を鳴らした。
『何をする気だ?』
太一が唸る。
「井辻を、治す」
『治すって、お前……』
「同情なんか……いらない!」
噛みつくように言う。
勇気は首を振った。
「同情じゃない。お前に何かあれば久住が泣く。だから治す。もっとも、神域で暴れたお前を‘彼ら’が何処まで赦すか知らないけれど」
苦笑を浮かべるように笑った勇気は井辻の横に座ると人差し指を立て第一関節だけを曲げるという奇妙な形に手を作った。
「‘この手はわが手にあらず 常世に坐す少名彦名の苦手なり 苦手を持ちて呪えば いかなる病も消えずということなし’」
何かが、そこにいるのを感じた。
小さい人のようなもの。
それでいて強大な力を感じる何か。
明弥は、ほんの少し勇気の力の本質を理解する。
意思を通わせることは出来ても、勇気自身には力がない。そして万能でもない。ただ‘神’と呼ばれる強い存在に強く願い言葉を紡ぐことでその一端を借りるのだ。
多分、その瞬間、彼の中に神が宿る。
だから強い精神が無ければすぐに壊れてしまう。
強すぎるから危うい。
それが、彼の力。