9 力のある言葉
その人は、なんの前触れも無く現れた。
人の形をしていたが、人ではないことはすぐに分かった。明弥は彼を見つめ、言葉より先に‘勇気に危険が迫っている’ことを理解した。
太一や斎に不審そうな顔で見られたが、明弥は今すぐ岩崎神社に行かなければと、送って貰えないかと頼み込んだ。酷い胸騒ぎがした。早く行かないと取り返しの付かないことになってしまいそうなそんな予感だった。
太一のバイクの後ろに乗り、小さな路地を幾度も抜け、最短距離で岩崎神社を目指す。
とんでもないスピードだったが、それでも遅く思えてしまうほど明弥は焦っていた。
神社にたどり着くと、バイクから転がるように落ち、足を縺れさせながらもヘルメット度脱ぎ捨て、礼もろくに言わすに明弥は薄暗くなった神社の階段を駆け上がる。
鳥居を抜け、上へ上へと駆け上がるうちに、何かが明弥を追い越した。
『明弥、乗れっ』
赤毛の狼が唸るように自分の背を示した。
完全に狼の姿へと獣化していたが、今までとは違い意識がはっきりしているようだった。
階段を駆け上がりながら首にしがみつくように背に飛び乗った。
明弥が走っていくスピードよりも遥に早い速度で彼は階段を上がっていく。あの人が、急かすように階段の頂点に立っている。奥へ、早くと指し示すように手を動かす。明弥達は鳥居を潜り抜け、広い場所へ抜けた。
井辻がいた。
その奥には岩崎の姿。
間に挟まれるように太一よりも小柄な白い狼の姿があった。
何か嫌な気配がする。
言い知れぬ不安。
「勇気!」
無我夢中で叫ぶ。
岩崎が、勇気が、こちらを向いた。
「……てた」
彼は優しく目を細める。
ぱりん、と皿の割れるような小さな音が響き、空が一瞬青紫に染まった。
次いで轟音が鳴り響く。
「!?」
それは雷だった。
白い狼と井辻の間に雷が落ちる。
巨木を一瞬でまっぷたつに割ってしまうほどのエネルギーは無かったが、その雷は井辻をひるませるだけの効果はあった。
太一から飛び降り明弥は勇気に駆け寄った。
赤かった。
彼の足下に血溜まりを作っている。
「怪我して……」
「……お前、何て格好してる?」
勇気は額に脂汗を浮かべながらもからかうような笑みを作る。
女装していたままだった事に明弥はようやく気が付く。
答えようがなくて明弥は勇気に切り返した。
「え……あ、そっちこそ」
勇気はあまり見られたくなかったという風に顔をしかめた。
それでも、口元に浮かんだ微笑みは消えなかった。
彼が左足に大きな傷を負っていることは明白だった。相当の痛みがあるのだろう。それなのに、何故笑っているのだろう。
自分に心配をかけまいとして笑っているのだろうか。
「久住ィ!」
井辻が憎々しそうに吐き出した。
どくん、と心臓が強く鳴った。
むき出しになった感情が怖いのか、何か悪いものでも食べてしまったかのように気持ちが悪かった。
嫌な感情が流れ込む。
不安や憎しみ、恐怖や悲しみ、妬み、恨み。感じたことも無いほど沢山の嫌な感情が一気に流れ込み、呼吸が止まってしまいそうだった。
「気をしっかり持て」
勇気が言う。
「大丈夫だ、俺がいる」
言われて不安な感情が嘘のように軽くなった。
勇気がそこにいる。
彼は怪我をしている状況で、むしろ助けなければならないのは明弥の方だろう。けれど、これ以上に心強いものはないと感じてしまう。
勇気がいれば大丈夫なのだと。
「あいつの感情に引っ張られるな。好きな食べ物の事でも考えていろ」
「好きな食べ物って……」
「好きな事でも何でも良い。とにかく、余計な事考えて悪いことは何も考えるな」
彼は引っ張り込むように明弥の身体を後方に隠す。
高鳴っていた心臓が静かになり、嘘のように呼吸も楽になった。
代わりに流れ込む暖かな気配。
それは、岩崎神社を包み込むものとよく似た優しい気配。
「はは……」
不意に井辻から笑いが漏れる。
「あははは、結局、そういうことなのか!」
嘲るような、それでいて何処か助けを求めるような笑いだった。
先刻一瞬感じたあの嫌な感情を全てを集めたような激情。振れすぎて、それが最早苦痛なのか快楽なのか分からなくなっているような笑い方だった。
「結局、誰も俺を選ばないのか」
泣きたくなった。
怖いのではない。
ただ、彼の感情が胸に迫ってくる。井辻のことは正直何も知らないし、どんな思いでこんな事をしているのか分からない。
けれど、辛かった。
剥き出しになった感情が酷く悲しかったのだ。
それなのにどうすることも出来ない。
だから、余計に辛い。
「ならもう誰もいらない」
ぴく、と太一ともう一匹の白い獣が反応する。
勇気が小さな刀を引き抜き構える。
「まとめて、死ね」
それは突風のようでもあった。
目に見えない何かが迫ってくるのを感じた。
太一と白い獣が同時に井辻に襲いかかった。
勇気が刀を地面に突き立てる。
「‘九 天 応 元 雷 声 普化 天 尊’!」
ばちん、と電流が流れたような音が響いた。
勇気の突き立てた刀を境に光の壁が浮かび上がる。まるで守るために作られた優しく強い光の壁。網を張った時のように悪いモノはそこで捕らえられているかのようだった。
強い風が吹き付ける。
しかしそれは消して二人を傷つけるものではなかった。
ぱん、と勇気が柏手を鳴らす。
「‘祓戸の大神 祓い給へ 清め給へ 六根清浄’」
力のある言葉が放たれる。
それは清めの言葉。
言葉は強い光に変わり、一帯を包み込んだ。
激しい光の中、
一瞬泣いている子供の姿が見えた気がした。