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ウィッチクラフト Ain Suph Aur  作者: みえさん。
第四章 巫覡 Wuxi
37/114

8 無限花序



 吐き気のするほど嫌な臭いがした。

 まるで饐えたドブの、いや、生き物が死んで腐った時のような臭いだ。それは赤黒い影と交じり合うようにゆっくりと近付いてきていた。

 この悪臭はおそらく殆どの人間が感じ取れない類のものだ。人の妬みや嫉妬という負の感情が交じり合い濃縮され、危険を知らせるために悪臭となって感じるだけなのだ。

 悪意の塊だ。

 息をするのも嫌になる。

 今までにもこういった臭いを感じたことはあった。だが、これはその程度を越えている。誰かの念に引きつけられるように周囲の念が集まり塊となって姿を現したのだ。これ以上進んで万人が匂いをかぎ取れるほどになれば、近づいただけで精神を病むものも出てくるだろう。それだけ、これは危険なものだった。

 神社の気配がざらりと変化した。

 結界の役割をする鳥居をすり抜け、何かが敷地内に入ってきたのだ。

 勘の良い鴉たちが警告するように一斉に騒ぎ始めた。呼応するように他の鳥たちも騒ぎ始める。遠くからは犬が吠える声が聞こえた。

 勇気は水干の紐を諸鉤に結ぶ。

 神事以外で装束を着ることは滅多にない。

 まして、勇気は出仕前だ。練習着として袴を着用することはあったが、水干を着ることはそう滅多にはなかった。けれど皆無ではないのは、今までにこういった事が幾度かあったからだろう。

 巫覡として戦う為の衣装だ。

 神職の装束は着るだけで自然と背筋が伸び集中力が増す。

 だから‘そういったもの’と対峙する時には着用するのだ。それが勇気の‘仕事’でもあった。

「そうだよな」

 ぽつり、と声が聞こえ勇気は顔をあげる。

 神社の長い階段を上がってきた井辻が赤黒い悪意に満ちた気配を纏って笑う。

 思っていたよりも状況が悪い。昨日よりも赤黒い気配は強くなり井辻の姿がおぼろげにさえなっている。気配が強すぎて飲み込まれてしまいそうだった。

 何故もっと早く気が付かなかったのだろう。

 少し考えれば分かったはずだ。安藤達の誰かが能力に目覚めている可能性があると分かっていたはずなのだ。それなのに何もせずにここまで状況を悪化させてしまったのは自分の落ち度だ。

 井辻には可哀想な事をしてしまったと思う。

 彼の周りの悪意は、彼本人だけのものではない。

 強い力に引きつけられて周囲の悪意も飲み込んでしまい、もはやそれが誰の悪意であるか区別が出来なくなっているのだ。

 それが夕暮れとなりさらに悪い感情を増したのだ。

 もっと早く気付いていればこんな風にはならなかった。

「決着を付けようか、岩崎?」

 井辻は嗤う。

 悪意は自分に向けられている。それだけがせめてもの救いかもしれない。

 勇気は人型に切った和紙に向かって息を吹きかける。

「‘我が息は神の御息’」

 ふわり、と浮かんだ和紙は意思を持ったように空高く舞い上がる。

「‘御息を以って吹けば穢れはあらじ残らじ’」

 ふう、と息を吐き出すと、言葉が力を帯びる。

 言葉自体には元から力があるのだ。どんな些細な言葉でも悪意を持って使えばそれは悪意として自身に返ってくる。だから、これは霊力が宿ったと言うべきだろうか。

「何を言っているんだ、岩崎、心霊ごっこか?」

「井辻、もう一度言う。頼むからもう止めてくれ。無駄に強い力を振るえばそれは害にしかならない」

「それを、お前が言うのか? あんな力を使ったお前が!」

 勇気は真っ直ぐ井辻を見た。

 あんな力、それは久住のインパクトに押されて力を暴走させてしまった事を言っているのだろう。久住は追及して来なかったが勇気は無意識で‘神’を呼び出したのだ。どんな神であったのか名は知らない。ただ‘それ’は勇気を救う為だけに悪意のある井辻を消滅させようとしたのだ。

 井辻が赤黒い影に飲まれた原因はそれにもあるのだろう。

 あれと出会ったことで、残っていた彼の良心が希薄になり取り込まれてしまったのだ。

 すべて、自分の責任だ。

「お前の言葉は聞かない。大人しく、死ね」

 鋭い言葉が吐き出される。

 彼のウィッチクラフトは赤黒い影を吸って強大なものになって勇気に襲いかかった。

 せめて、

「……あの影を」

 少しでも浄化することが出来れば。

 勇気は井辻から目を離さず手の平を会わせて打ち鳴らした。

「疾く来たれ 白き神の子 穢れを祓い大経を開かん‘急急如律令’」

 言葉に従うように上空から白い光が落ちる。

 それは銀色の毛並みを持つ小柄な狼。

 大地を踏みならし、赤黒い塊に噛みつくように躍りかかる。

 赤黒い影が霧状に散り、残った衝撃が勇気の身体を後方に突き飛ばす。

「……っ!?」

 左足に、尋常ではない痛みが走った。

 何か硬質なもので叩かれ砕かれたような激しい痛み。

 意識を手放したくなるほどの衝撃。

「……ぐっ……ぁ……?」

 呻き声を上げると井辻がせせら笑う。

「あはは、こんなものも避けられないのか! 情けないな、神社の息子が」

 左足から、おびただしい血が流れていた。

 不安と恐怖、そして憎しみが、勇気の中に流れ込んだ。

(憎い)

 自分をこんな風にした井辻が憎い。

 殺してしまいたい。

 神は自分に味方をする。

 いっそひと思いに消滅させてしまえばいいのだ。

 ……殺してしまえ!

(違う!)

 勇気は頭を振って必死に意識を保とうとする。

 この憎しみは自分のものではない。

 あの赤黒い影が、そうさせているのだ。

 感情を憎しみに流すのは簡単だ。負の感情の方が楽なのだ。流れてしまえば取り込まれる。全てが見えなくなる。苦しみも消える。

 けれど、それは違う。

 自分はそれを望んではいない。

 でも、果たしてそうなのか?

 井辻を消滅させればこんな想いをしなくていい。

(神の力を使えば)

 誰も自分には敵わない。

 勇気は暗く笑う。

「消えろ」

 白銀の狼が勇気の方を見る。

(………だめだ)

「消滅しろ」

(違う、そんなことをしたい訳じゃない)

 意識を保とうとすればするほど、赤黒い影が精神を刺激してくる。勇気の中にある人に対する悪意や攻撃的な部分を刺激し、頭の中に流れ込んでくる。足に走る痛みが正気をかき消そうとしていた。

「これで終わりだ!」

 井辻が叫ぶ。

 白銀が低く唸りを上げた。

(どっちだ?)

 このままでは自分が死んでしまう。だったら、殺される前に相手を殺すのが正しい行動ではないだろうか。

 思いながらもそれだけは駄目だと頭の中で何かが警告する。

(どっちが正しい?)

 決まっているはずだ。なのに、分からない。

 交錯する二つの感情。

 黒い影が流れ込む。

 取り込まれる。

(……いやだ!)

「勇気!」

 誰かが、叫んだ。

 井辻ではない誰か。

 心の奥底から、何か強い力がこみ上げてくる。

 まるで花が先端に向かって咲いていくような感覚。

 無限花序。

 その力は、勇気を暖かく包み込むようにして開花する力。

「そうだ……」

 勇気は呟いた。

「忘れてた」

 大切な事を、忘れていた。


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