7 兄のような人
蝶が舞っていた。
光る針金で作られたような幻影の蝶。
それは変幻自在に色と形を変えながら、男にまとわりつくように何匹も飛び回っていた。
蝶の姿を見ながら、勇気は男を見て目を瞬かせた。まさか彼が来ているとは思っていなかったのだ。
モデルのように細く長身で整った顔をしている二十歳前後の男だ。彼は脇にファイルを挟んで神社の鳥居に寄りかかりながら空を見つめていた。服装はカラーシャツにジーンズとラフなものだったが、安っぽく感じさせない不思議な男だった。
「雅斗兄」
呼びかけると男が振り返った。
綺麗な顔が完璧な笑みを作る。綺麗でどこか妖艶な雰囲気があり、写真だけ見れば女と見間違えそうなほど中性的な顔立ちをしている人だったが、女々しいという印象はなかった。
煌めく蝶をまとわりつかせている姿は人ではないものにさえ見える。
「久しぶりだな、勇気」
変わらない静かな口調だった。
前にあった時より少し髪が伸びているだろうか。
「わざわざ来てくれたんですか。無理にお願いしたのはこっちなのに、すみません」
雅斗は何て事無い、と首を振って答える。
「こっちについでがあったからな」
「……相変わらず‘それ’に付きまとわれているんですね」
「ああ」
彼はちらりと蝶を見る。
「害はないよ。ただ時々現れて人の生き死を教えていくだけ。贄を与える者がいなくなったからあの時ほどの力はもうない」
この蝶は他の人間には見えない。勇気と同じように「そう言うもの」を見ることの出来る彼だから見えるのだ。否、雅斗の場合はこの不可視の蝶と因果関係があるために見えるという方が正しい。
四年前、この蝶のせいで雅斗は殺人事件に巻き込まれた。勇気は蝶のおかげで雅斗と知り合った。彼の言うように生け贄を与えて使役する者がいなければ特に害をなさないものだった。これが良い物なのか悪い物なのか勇気には分からない。事件の時は飲み込まれそうで嫌な感じがしたが、今の蝶はただあるだけのもののようだった。
勇気は手を伸ばして蝶に触れる。
指先が触れた瞬間、それは霧か砂になるように細かい光の粒子になって消えた。
雅斗はその蝶の姿を見て「脆いだろう」と笑う。
有賀雅斗は勇気にとって兄のような存在だ。四年前、あの事件で渦の中心に一番近いところにいた人で、死神に狙われながらも生き残った人だ。それはもう昔の話で、今は警察の頂点を目指すために大学に通っている。
彼は勇気が今まで出会った人の中で一番頭が良い。多分天才とはこういう人のことを言うのだろうと思う。その天才はある人物を捕まえる為に権力を手に入れようとしている。大学に通っている今もその下準備を進めているのだ。
「……珈琲屋の向かい側の店、火事で人が死んだらしいな。ゼロ班管轄で動いているのか?」
「伊東さんが気になるからと調べているとは聞きました。何か引っかかる点が?」
「あの辺りで蝶達が騒いだ。蠱毒とは違うようだけど、この辺りで何かしようとしている人がいる。警察もバカじゃないから気が付いているだろうけどね」
「嫌味ですか」
「よく分かったな」
相変わらずだ、と息を吐き出すと叩くようにファイルが頭の上に置かれた。
「勇気の知りたがっていたことだ。メールを貰った時に父さんのラボにいたからすぐに集められたよ。運が良かったな」
ファイルを受け取って勇気は礼を言う。
「ありがとうございます。今度必ずお礼します」
「出世払いでいい。いつか勇気の力を借りる時が来る。だから恩を売っているだけだから」
はっきりと打算で動いているのだと言われる。
半ば本気だろうが、勇気に気を遣わせない為もあるのだろうと思う。
「それに、暫くここから離れるから」
「離れる? まさか、母さんにこき使われて?」
「違うよ、もっと上の方からちょっと公に出来ない臓品捜査を頼まれただけだ。本当はこの事件に興味あるけど、まぁ、上を目指すなら誼を結んだ方が得だから」
彼はそう言って自嘲気味に笑った。
「それよりも勇気、あの守り刀はどうしている?」
「神社の方で祀ってます」
勇気は上を示した。
確認するように頷いて彼が言う。
「持っていた方が良い」
「予言ですか?」
「経験に基づく推理だよ」
「そうします」
勇気が頷くと、綺麗な顔がじっと勇気の方を見つめた。
まるで自分の頭の中を探られているような気分になった。
天才と呼ばれる人達の中には、頭がいい分人の感情の機微に鈍感な人や敏感すぎて極端に捉えてしまうような人が多い。だが、雅斗に関しては違う。
自分の感情に関しては鈍感な部分もあるが、人の感情に関しては論理的に理解し、的確に判断する人だ。だから時々彼と話していると見透かされたような気分になる。
雅斗は笑いを含んだ声で言う。
「何を悩んでいるのか知らないけど、あんまり考えすぎると身動きがとれなくなる。たまには無茶をするのも良いだろうね」
「伊東さんと正反対な事を言う」
「心配症なんだよ伊東刑事は。勇気は俺と同じで頭で考えすぎる所がある。冷静に対処するのは悪いことではないけれど、時々感情で突っ走ってみるのも悪くないと思うよ。その上で人を頼るのも悪くない。そんな簡単な事柄の事じゃないよ」
彼は勇気に渡したファイルを示す。
勇気は複雑そうに顔をしかめた。
何を悩んでいるか知らないと言ったのに、何について悩んでいるのか知っているかのような口ぶりだ。
嫌ではないが、やはりこの人に敵わないことを思い知ってしまう。
「じゃあ、俺はこれで行くよ。こっちに来たついでにまだ会って行きたい人がいるからね」
「忙しいところすみません」
いや、と彼は屈託の無い風に笑う。
そして不意に思い出したように言った。
「ああ、そうだ。聞きたいことが一つ」
「何ですか」
「‘コタケレイカ’という名前を知っているか?」
「……レイカ?」
「覚えがあるのか?」
「いえ、鈴華という名前の子を知っているだけです。その人が何か?」
雅斗は首を振る。
非常に曖昧そうな表情だ。
「それを調べている時に父さんが不意に思い出した名前なんだ。それ以上何か記憶があるわけでもなく、ただ酷く混乱をした様子を見せた。軽い催眠術で思い出せなくなっているような様子だった」
「だからあるいは関連がある、と?」
そうだ、と雅斗は頷く。
「片隅に名前くらい覚えておいても害はないだろう? 残念ながら俺は協力出来ないけれど、調べてみるのも悪くない」
勇気は頷く。
ゼロ班が動向を窺っている南条斎の妹、南条鈴華。
そしてウィッチクラフトについて調べていくうちに不意に出てきた名前、コタケレイカ。
共通するレイカという名前。
偶然の一致。
それとも関連があるのだろうか。
関連があるとしたら、どんな関連だろう。
そもそもコタケレイカという人物は一体どんな人物だろう。
謎は深まる。
だが、糸口は見つけた。
勇気は「コタケレイカ」という名前を脳裏に刻み込んだ。