4 圧倒的な存在
C組の教室を覗き込むとトモミの姿はすぐに見つかった。
クラスメートの女子と何やら話している彼女は、他の子に指摘されてようやく明弥の存在に気付いた。彼がこのクラスに用事があるとすれば彼女だけだ。一緒にいるところを何度も見られているから、他の子達も二人の仲の良さは分かっているのだろう。
トモミはすぐに明弥の方に駆け寄ってきた。
「どうしたの、何か忘れ物でもした?」
明弥は首を振った。
「そうじゃなくて、これ」
彼女にメモを渡す。
そこには090から始まる番号が二つ書いてある。
「ん? 携帯の番号?」
「上の方が僕ので、下のが岩崎君の。知っていた方がいいんじゃないかって」
「岩くんが? へぇ?」
言ってからトモミは首を傾げる。
「あっくん携帯持ったの?」
「色々あってね。番号変わるかも知れないけど」
「おばさん良く口説き落としたね」
「実はそうじゃなくて、今度また話すけど、ある人から貰ったんだ。だから母さんと奈津姉にはこれね」
明弥は指を一本唇に押し当てた。
「ふぅん? じゃあ、後でちゃんと話してよ?」
「約束するよ」
どっちにしたってそのうちトモミには話さなければいけないだろう。
信じてくれるかどうかは分からないが、ずっと彼女に黙っているなんてとても出来なかった。
不意に、明弥の視線がある一点を捕らえた。
吸い寄せられるように明弥の目は釘付けとなった。
実際に誰かいるわけでも何かいる訳でもない。興味を惹く何かがあるわけでもない。
それなのに明弥は何故かそこから目線を逸らすことが出来なかった。
何も見えないけれど、確実にそこには何かが‘いる’のだ。
「ごめん、トモちゃん、行かなきゃ」
「行くって……授業始まるよ?」
「うん、でも‘呼んでいる’から」
「呼ぶって誰が……あっくん!?」
聞き返すトモミに答えている暇なく、明弥は走り始めた。
目に見えないそれの姿を追う。
今までならば気のせいで済ませてしまっていた。
だけど、もう自分は知っているのだ。人ではない何かの力が確かに存在することを。
今更気のせいだと言って無視をして、何かが起こった時に後悔するのは嫌だった。
階段の踊り場までさしかかった時だった。一瞬‘それ’がゆらりと揺らぎ明弥の目にも見える姿で人のような形を造る。影のような、人型の何かだ。前にアニメで見た‘光学迷彩’という状態に似ている。それが、ゆっくりと手を上げ校舎の外を指差した。
明弥は窓から乗り出すようにして外を見る。
窓のすぐ下には駐輪所の屋根。
通路を挟むようにして奥には水が張ったままになっているプール。その脇に、今は使われていない焼却炉があった。
そこに、二つの人影が見える。
岩崎と井辻だった。
「……!」
血の気が引いた。
何か見えない手でつかみ上げられているように、岩崎の身体が宙に浮いている。
「岩崎君っ!」
叫んだ瞬間、明弥は何かに引っ張られるような感覚を味わう。そのまま、その力に反発することなく駐輪所のトタン屋根の上に飛び降りる。がたん、と強い音で鳴り響いた。
「……っ来る……なっ!」
苦しそうにしながらも岩崎が叫んだ。
井辻が振り向いた。
刹那、明弥は胸の辺りに衝撃を覚える。まるで金属バッドで殴られたような痛み。後方に突き飛ばされるような激しい衝撃。
「っ!」
息を飲んで次の衝撃を覚悟した。
壁か床、どちらかに叩き付けられる。
目を瞑って歯を食いしばった。
だが、
「……?」
明弥は妙な感覚に気付き、おそるおそる目を開く。
衝撃は無かった。
その代わりにあるのは何かの柔らかい感触。目を開くとそこに男がいた。背景を透過してしまう半透明の姿だった。二十代か三十代くらいか。穏和そうな顔立ちに少し細い強く優しい瞳。どことなく岩崎と似た面差しがあった。
男は岩崎の方を見つめながら何かを呟く。
不意に、彼の姿が消えた。
「わっ!」
支えられていた身体が落ち、明弥はトタン屋根の上に軽く尻餅を付いた。
何か暖かい風が明弥の隣を駆ける。
風は目に見ることが出来ない。
だが、その風がまるで守るように岩崎の身体に巻き付いたように感じた。
明弥は伝うように駐輪所の屋根から降り、焼却炉の方に向かって走る。
井辻と視線があった。
「来るなよ、久住」
井辻が嗤う。
ぞくり、とした。
明弥が井辻に会ったのは入試の時の一度きりだ。けれど、何か違う気がした。明弥の知る井辻とはまるで違う人のように思えた。
これが、本当に彼なのだろうか。
「お前には感謝しているんだ。出来ればあんまあり痛めつけたくない」
空虚に思えるほど無邪気な微笑み。
けれどそれは狂気を孕んでいる。
怖い。
太一と向き合っている時の怖さとは違う。本能が拒絶するような恐ろしさがあった。
くすり、と笑って井辻は岩崎の方を向く。
岩崎の身体はやはり宙に浮いている。その手はもがくように喉元を押さえている。苦痛に歪んだ顔は恐ろしいほど青かった。
「変に突っかかって来なきゃ、お前もこんな目に遭わなかったのにな? いいか、俺がやったなんて口が裂けても言うなよ? ま、言ったところで、俺は手すら触れてないんだから、証拠なんて何もないけどな」
井辻が、何かをしようとしているのが分かった。
「止め……っ!」
声は、言葉にならなかった。
代わりに身体の奥底から何かがせり上がってくる。
押さえきれない衝動が一気に吹き出すように、自分の身体から何かが吹き出したような感覚に襲われる。
後で考えればそれが「インパクト」だったのだろう。
その瞬間、明弥の頭の中は岩崎をどうにか助けたいという思いで一杯だった。だから、出てくる何かをさらに押し上げるように押し出す。
「!?」
がくん、と膝から力が抜けた。
明弥はその場に蹲り全身に走る妙な痛みに耐えた。
どさり、何かが落ちる音がした。岩崎の身体が地面に転がっている。
井辻もまた、その場にへたり込むように尻餅をついた。
さっきまでとは違う‘何か’がそこにいた。
恐怖とも何ともつかない、圧倒されるような感覚。
見えないけれど何か恐ろしいものが、そこにいる。
息が、出来なかった。
竦むどころか、動くことさえ出来なかった。
「………だ」
弱々しく岩崎が何か呟く。
「……駄目…だ、やめてくれ……俺はそんなことを、望んでは……いないっ」
ごほっ、と岩崎が咳き込む。
それは明弥に向けられたものではなかった。そこにいる不可視の何かに向けて言った言葉だった。
お願いだ、と岩崎が呟く。
何かに観察されているような、嫌か感覚があった。しかし、次の瞬間、ろうそくに息を吹きかけた時のように気配が一瞬で消えた。
とたん、息が軽くなる。
「……?」
授業開始のチャイムが鳴った。
騒ぎを聞きつけたのかばたばたと教師達が集まってくる。
「……今の」
一体何が起こった?
その疑問に答えは見つからなかった。見つめた手の平はかたかたと小刻みに震えていた。