2 それが彼の日常
店に入ると消火剤と色々なものが焼け焦げた匂いがした。
立ち入り禁止を示す黄色いテープをくぐって岩崎勇気は店内を見回した。不審火の可能性が高い火事現場。中学の制服を着た少年が現場に入ってきたのを咎めないのは、すぐ側に刑事の姿があるからだろう。出火原因を調べている鑑識の男が一瞬怪訝そうに彼の方を見やったが、どうやら目撃者か店の関係者だと思われたらしい。
誰も彼のことを咎める者はなかった。
彼は周囲を見渡し嘆息する。
「確かに二件目と同じ気配が」
少年が言うと、背が高い刑事は頷いた。
目が細く、体格のいい彼は一見すると刑事と言うよりはヤクザの関係者のようにも見えてしまう。悪い顔つきではないのに、そう見えてしまうのは彼の眼光の鋭さにあるのだろう。
彼の名は伊東猛という。
まだ「若手」と呼ばれる刑事だったがその働きや感覚の鋭さはベテランの刑事とも肩を並べる程だと別の刑事から聞かされたことがある。少年もこの刑事が敏腕と呼ばれるのに相応しい人物であることを知っていた。
少年が伊東が評価に値する人物だと判断するのは‘あの人’の部下を何年も続けているのだから。
「勇気」
呼ばれ少年は振り向いた。
警官にしてはラフな服装をした女が近付いてきた。何やら不機嫌そうだった。
そう、伊東はこの人の部下を長い間続けている。
勇気は彼女を示す名を読んだ。
「母さん」
昨日もやはり家には戻っていないようだ。或いは勇気の眠っている間に出入りしたかと思ったが、彼女は出かける時に着ていた服ではなく、着替え用に持って言っている服を着ている。
彼女の外見は若い。勇気がむしろ大人びた外見をしているためか、親子というより姉弟に見えるだろう。だが確かに勇気を産んだのはこの女刑事だった。母親らしいところはあまり見あたらないけれど、それだけは確かな事だった。
眠たそうな顔で彼女は言った。
「学校は?」
勇気は苦笑した。
その横で伊東が吹き出した。
「その様子だと忘れていますね。三年生は受験勉強のために短縮授業なんですよ」
「そうだったかしら?」
悪びれもしない彼女に伊東は皮肉の籠もった言葉を返す。
「家に戻る暇もありませんから忘れるのも無理もありませんが、あまり度が過ぎるとひねくれますよ」
それは勇気に対しても皮肉だ。
勇気は軽く男を睨んだ。母親も伊東を睨む。
そんなことで動じるようならば既に部署を変えてくれと嘆願書を提出しているだろう。さすがにこの破天荒と呼ばれる女刑事の部下を何年もやっているだけのことはある。彼は顔色一つ変えなかった。
顔色を変えず、話を元に戻す。
「それで、これは?」
勇気はその質問に頷く。
「こっち側の事件だよ」
言うと母親は興味があるのか無いのか分からない顔で言う。
「そう。……表の事故は見た?」
伊東が勇気の代わりに頷く。
「はい。愛さんが来る前に少し調べました。火事に気を取られた脇見運転というのが見解ですが、奇妙な点が」
上司の名前を「愛さん」と親しげに呼ぶのは伊東が親密な関係にあるからではない。実際親子と懇意にしていたが、それが理由で彼女を名前で呼んでいるわけではない。彼女は苗字や役職名である「警部」と呼ばれるのが嫌いなのだ。
だからよほど改まった席でない限り、彼女はみんなにそう呼ばせている。
それで通ってしまうのだからおかしなものだ。
キャリアでもなく、女で、しかもこの若さで警部と呼ばれているのだから彼女の腕は確かだった。その実力が認められているからこそ彼女のわがままが通ってしまう。彼女を中傷する側から言わせれば「警察庁のお偉いさんの娘だから」ということだが、彼女はそれを一笑で吹き飛ばす。
何であれ、彼女の肝が据わっているのは確かなのだ。
「私も奇妙に思えるわ。あれだけ車がぐっちゃなのに、ガードレールはただ曲がっただけ。運転手が軽傷を負っただけ。奇跡よね。勇気は何か感じた?」
「ガードレールのこっちには悪意はなかった」
含みのありそうな言い方に愛は少し眉を跳ね上げた。
問うように見つめられ、勇気は続ける。
「見間違いかも知れない」
「いいわ」
「一瞬だけど運転手のこの辺りに赤黒い影が見えた」
彼は蟀谷を叩く。
勇気には人には見えないものが見える。気配や影と言った言葉で代用しているが、彼は人の纏うオーラというものや、幽霊や思念のようなものまで感じ取ることが出来る。その中で赤黒い影は「悪意」の事だ。
それは俄には信じがたい事であったが、伊東は彼の能力を信じていた。彼にはそれだけの実績があるのだ。見えていなければ説明の付かないような事柄を彼は言い当て、それが幾度と無く捜査を助けているのだ。勘で言っているのであればそれもまた才能だろうとさえ思えるほどだ。
母親といい、息子といい、岩崎親子は不思議な親子だと思う。
伊東は問うように首を傾げた。
「それはどう判断すれば?」
勇気は首を振った。
「俺の見間違いかもしれないし、運転手は野次馬の中の誰かに対して明確な殺意があったのかも分からない。ただ、怪我人がない以上はただの事故だ」
「そうね。ともかく、この火事と事故は無関係なのね?」
母親の問いに勇気は頷く。
「その点を接点と考えるとしては薄すぎる。偶然同時期に起きたと思う方が正しいと思う。ただ、このところ多い気がするんだ」
「多い?」
「こういう類の事件が。全部が全部というわけじゃないけど、根本で繋がっている可能性を考えた方がいいかもしれない」
根本ね、と愛が呟く。
「忠告として受け取っておくわ。……ところで、今日は意地でも帰るから」
「伊東さんも?」
問うと伊東は頷く。
「はい、ご一緒させて頂きます。夕食は俺が作りますが何か食べたいものありますか?」
勇気に向けて問いかけられた言葉だったが、愛の方が先に答える。
「カレー、この間、CMでやっていたやつ」
ちらりと伊東が勇気を見る。
彼はそれでいいと頷いて見せた。
「八時くらいには帰れると思いますが」
「俺もそのくらいになると思う」
伊東は頷いてから外を示す。帰れ、と言ったのではなく車で送ると言うような素振りだ。勇気は首を振ってその申し出を断った。
火事の現場から外に出ると、冷たい風でぐんと身体が冷えた。
軽く身を縮め、寒さをこらえる。
目の前を車が通過した。
「……っ!」
勇気は息を飲む。
赤黒い影が見えた。
車を運転する男に激しくまとわりつく赤黒い影。どこか血の匂いの混じる呪詛の匂い。
人がいれば、悪意を生む。激しい悪意は影を生む。
だから、赤黒い影を見ること消して少ない訳ではないのだ。
ほんの少しの人の感情の差で、普通の人でも見えてしまうことがある。
しかしあそこまで明確な影を見るのはあまり無かった。
喉の奥に酸っぱいものを感じる。
誰かに憎まれているのか、それとも憎んでいるのか。
激しい憎悪をまとわりつかせた車はそのまま青信号の交差点に向かって走り抜ける。
こみ上げてくる吐き気に一瞬口元を押さえた。
(大丈夫)
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
こんなものを全て気にしていたらきりがない。分かっている。だから、気にしてはいけないものだと。
勇気は背筋を正すと、車が走り抜けた方と反対側に向かって歩き始めた。
喉の奥が酸で焼かれたように痛かった。