1 親と子
岩崎親子のアパートは入り組んだ住宅街にある。周辺道路は車通りが少ないが、路地から一歩外に出れば国道が走っているために人通りも車も多くなる。
近くにあるパーキングに車を止めると、伊東はクリーニングの袋を下げてアパートへと走る。部屋の前まで行くとチャイムを鳴らす前にドアが開いた。
「おはようございます」
先に声をかけると、制服のネクタイを締めながら勇気が挨拶を返した。
「おはよう、伊東さん。お疲れ様です」
狭いアパートのために、物が溢れ乱雑に入り乱れている様子はあったが、母と高校生の息子の二人暮らしの割に、部屋の中は整頓されている方だろう。あの大雑把な愛がこんな風に整頓をするはずもなく、勇気がマメに掃除をしていることを伊東は知っていた。ここ数年は伊東も時々掃除を手伝うことがある。
そうでもしなければこの家は愛によってすぐに無法地帯になってしまうのだ。
「クリーニング、仕上がっていたから取ってきました。俺のも入っていますが」
「置いていって良いよ、どうせ暫くマンションの方戻れないんだろ?」
「あはは、お見通しですか」
伊東は苦く笑う。
仕事が忙しくなるとマンションに戻るよりもここを拠点にした方が早い。愛の着替えを取りに来るのを口実に、勇気の様子を見るのも伊東の仕事の一環なのだ。あの敏腕刑事が安心して仕事をするためにはそのくらいの努力は厭わないし、忙しい最中でも彼に会うと少し癒されるのだ。
綺麗な顔立ちをしているとはいえ、目つきの悪い男子校生を相手にそんなことを言えば気味悪がられるだろうが、本当に不思議な雰囲気のある人なのだ。彼の父親は幼い彼を見て「神に愛された子」と言ったそうだ。それが頷けるほど、彼の周りの空気はいつも優しい。
勇気は伊東がここに来た時に使うカップを少し上げてみせる。
「コーヒーは?」
「はい、お願いします。……愛さんも当分こちらへは戻れないと思いますよ」
「例の火災の件、進展があったんだから仕方ないと思うけどね」
勇気は眉根を寄せながら笑った。
「それ誰から聞いたんですか?」
「眞由美さん。ついさっき来て、愚痴こぼしてまた飛び出していった。ストレスたまっているみたいだな」
その光景がありありと浮かんできて伊東は溜息をつく。
どうしてゼロ班の人間は彼に迷惑ばかりかけるのだろうか。伊東自身も身に覚えがあるだけに、藤岡に注意出来ないのが悲しい。
「そっちに母さんの荷物まとめといたから、渡しておいて下さい。それと、弁当。伊東さんの分もあるから」
勇気はコーヒーメーカーからコーヒーをカップに注ぎながら言う。
包みの大きさからおにぎりだろうと推測出来る。愛の分はサンドイッチだろう。さすがに何年も付き合うとそれぞれの好みを知っているのだ。忙しい時になると食べる暇も惜しんで仕事をするから、片手で食べれるものがいいことも。
「俺の分までありがとうございます」
「いいよ、どうせついでだから。……それより伊東さん、寝に戻るだけだったらマンション引き払ったら?」
伊東は椅子に座りながら苦笑する。
「……それ、去年藤岡さんにも言われましたよ」
本来独身寮を使うはずの伊東は今マンションを借りて住んでいる。しかし住んでいるとは名ばかりで殆ど寝るために戻る程度で、どちらかというと岩崎家に戻ることの方が多い。最近はここか仮眠室で寝ることも多くなったから、周囲から無駄だと散々言われている。
まさか勇気にまで言われると思わなかった伊東はただ笑うしかなかった。
目の前に出されたコーヒーに砂糖を入れる。疲れている時はどうしても糖分が欲しくなるのだ。
それで、と勇気は向かい合う席に座る。
「母さんとはどうなの?」
「ご……っ!」
コーヒーを噴き出しかけて伊東は口元を押さえる。
誤って熱いまま飲み込みそうになるが、幸い大事には至らない。
「な、な、何を突然……!」
「……って、眞由美さんに聞かれた」
勇気は何故かニヤニヤしながらコーヒーに口を付ける。慌てふためく伊東とは対照的に楽しそうな笑み。
完全に翻弄されている。
伊東は頬が紅潮していくのを感じる。
咳払いをして居住まいを正した。
「どう、と問われても質問の意味が分かりかねます」
「説得力ないけどね」
コーヒーカップを置いた彼の顔は少し揶揄するように微笑まれている。
あんな風に慌ててしまえば、意識したことがないという誤魔化しは通用しなくなる。相手が藤岡なら、こういう質問を投げかけてくることを覚悟しているから対処のしようがあったが、勇気から来るとさすがに動揺した。
どうせ藤岡が要らぬ入れ知恵をしたのだろう。でなければ彼がこんな質問を投げかけてくるはずがない。
普段にないことを言われた時点で気付くべきだった。
「俺としては、今と生活あんま変わらないから別にいいよ。伊東さんが‘お父さん’になったって」
「愛さんとは別にそんな間柄じゃありませんよ」
「二人とも独身なんだから、俺に気兼ねする必要な無いって言ってるんだよ。伊東さん、母さんに上司以上の感情もってるんだろ?」
「そ、そんなことより………ええっと、そう、隠しておいても耳に入る事だから、一応伝えようと思ったことがあったんですよ」
「……はぐらかしたな」
うるさい、と悪態を付いて伊東は勇気の前にメモ用紙を差し出す。
瞬間的に勇気の顔色が変わったのが分かった。
「伊東さん、これ」
「今朝未明のことです。ただのケンカともとれるんですが、どうしても引っかかる点が多くて」
渡したメモ用紙には昨晩から今朝未明にかけておこった高校生の暴行事件のあらましが書かれていた。
今朝未明、夜勤明けで戻るタクシー運転手が七人の高校生が倒れているのを発見し警察に通報。一人は意識不明の重体、他の六人も骨を折るなどの重傷。元々、それほど素行のいい生徒達ではないからケンカか暴走族関連のリンチなどを疑っていたが、不可解な点があまりにも多かった。
病院に運ばれた高校生達は一人の人間に一方的にやられたと言い、その犯人に言及すると怯えた様子を見せ話すことが困難になる。結局犯人が誰であるかは分からなかった。
本当ならば警察の家族だろうと捜査状況を漏らすわけにはいかないのだが、事情が事情だ。起きた事件の被害者に、入試の時に久住明弥に絡んだ二人の名前があがればどうしても関連を疑う。久住明弥自身がどうというわけではない。これも、彼の周りで起きている事件の一つではないかと疑ったのだ。
「安藤に、馬場か。……井辻は?」
「先程連絡を取ってみましたが、無事のようです。念のために母親に確認しましたが、彼は昨晩一歩も外に出ていないようです。セキュリティのしっかりした家ですから、夜間に玄関が開閉すればアラームが鳴るはずです。電源が落とされた形跡もないようです」
さすが、と勇気は笑う。
「調べるのが早い。井辻が無事なのはカモフラージュか、それとも、無関係か。学校に来ているようなら少し探ってみる。警察も聞き込みに行くんだろう?」
「はい。このケースの場合、まだ担当は生活課の方だから俺等は介入しませんが、情報だけは仕入れておきます。何か分かっても分からなくても連絡は入れますから……くれぐれも無茶はしないように」
最後の下りは強めて言う。
放っておくと彼はいつも危険な場所まで関わってしまう。いくら協力者だからといって危険な目に遭わせて言い理由にならないし、純粋に彼のことが心配だった。
「無茶はしないよ」
そう言っても無茶をする性質なのは知っているが、言われれば信じるしかない。
若干の不安は残るものの、それ以上は何も言わなかった。