5 誰も、悪魔から逃げられない
立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされたのは、放火の疑いがあるからだけではなかった。五階建てのビルの半分以上を焼き尽くした火事だったが、上二階は空き店舗となっていたために、奇跡的に死者はなかった。
だが、遺体は発見された。
司法解剖の結果を待たなければならないが、死因はおそらく出血多量。
火元と思われるその遺体には複数の刺し傷があった。
状況から判断すると男はこのビルの一階から三階までのレストランカフェを経営する柴田という男。従業員の話からは責任者でありながらもあまり目立たない印象の男だったと言う。暗く怖い印象を覚えたものさえもいた。三階奥のスタッフルームで商品の発注や売り上げの管理をしているために店の方には滅多に顔を出さず、そのためか良い噂も悪い噂も特に聞かなかった。
「目撃者の証言によると、男は奥から持ち出した灯油を頭からかぶり自らの身体にナイフを突き立てて火を放ったそうです。三階の燃え方が酷いのは灯油がまかれたせいですね」
伊東はしゃがみ込んで現場の様子を見る愛に告げる。
彼の手には手帳が握られている。彼女が現場に到着するまでに聞き込んだことの全てが書かれていた。
ゼロ班は表向きには存在しないことになっているために、彼らは強行犯係に所属している事になっている。超常現象が関わる事件を扱うのだ。まさか警察が超常現象を信じていると発表するわけにも行かず隠されている。
本来ならば殺人が疑われる時以外では強行犯係が火災犯を追うことは少ない。だが、一連の放火事件から無理に関係があるとねじ込みゼロ班はこの火事に介入した。南条太一が関わったと聞いて見過ごせなかったのだ。
ゼロ班は少し特殊な権限を持っている。それでもこの特殊捜査班の介入を良く思わない者も多い。愛が本来ならば課長となってもおかしくない「警部」の肩書きを持っているのも、他の事件に介入する際に余計な諍いを少なくするためだ。
「それは自殺ということ?」
愛は少し考えながら問う。
この件は今までの火災とは無関係だろうか。
「それが少し妙なんですよ。軽く調べただけなんですが、特出した自殺の原因と思えるものがありませんでした」
「突然死にたくなる症候群?」
「何ですか、それは」
「若い子と、中高年くらいに多い病気。何か突然訳もなく死にたくなるらしいわ」
「そのまんまですね。その辺の事情は当人しか分からないのでしょうが、柴田は自殺する直前まで誰かと会っていたそうです。ちょうど、この辺です」
伊東は焼け焦げたテーブルの辺りをしめした。
原型は止めていないものの、配置からそこに四人がけのテーブルとソファがあったことが推測出来た。
「この辺で誰かと話をしていたそうです。観葉植物の影になって顔は見えなかったそうなんですが、向こう側に座っていた主婦達が長身の男だったと証言しています」
「防犯カメラは?」
「これも妙です。火災発生の一時間ほど前に、店舗にある全てのカメラの線が漏電したかのように焼き切れたそうです」
愛は顔を上げる。
「……全て?」
「はい全てです。店員がメーカーに問い合わせた所、古いものなので不具合は生じやすくなっているそうなんですが、それにしても全て焼き切れるのは作為的なものを感じますね」
伊東の言葉に愛は考え込むように口元に手を当てた。
彼はまだ重要なことはあるのだと言うように続けた。
「その、柴田なんですが、男と話をしている途中で突然奥の部屋に入ったと思うとすぐに出てきて灯油をまいたそうです。異変を感じてすぐに逃げ出したのが良かったのでしょう、三階にいた主婦達は無事でした。逃げる際に彼女たちはこんな言葉を耳にしています」
伊東はそこで言葉を切った。
愛が興味を抱いたと言う風に視線を向ける。
その視線に頷き伊東は手帳に書かれた言葉を読み上げた。
「誰も、悪魔から逃げられない」
「悪魔?」
呟くと何かぞっとするものが背筋を這った。
まるで映画かドラマのような台詞だ。これから死のうとしている人間が口にするような言葉には到底思えない。しかも男は笑いながらそう言ったのだという。完全に狂っている。「薬物は」
「調べています。それより南条太一の方はどうでしたか?」
はずれ、と愛は両手をあげて見せた。
「今回に限っては偶然居合わせただけのようね。同行していた看護士の女性も、orange猫の店員も怪しい行動は見なかったそうよ」
「そうですか」
伊東は頷く。
子供を助けた勇敢な男が南条太一であったと聞いて、一度は関連の事件であると疑った。しかし、よくよく考えてみれば、今の状況で南条斎が太一の勝手な行動を許す訳がない。もしもこの事件に関わっていたとしても、経済力のある南条家だ、事件を監視するにしても太一ではなく金で雇った者を使うだろう。
裏を読めばわざと太一に目立つ行動を取らせ、疑いを逸らそうとしている可能性もあったが、南条斎に限ってはそんな浅はかな行動を取るとは思えなかった。
彼ならばもっと上手くやる。
だからあの規模で超常現象の研究をしながら、これまでゼロ班が介入することがなかったのだ。警察庁の超常現象捜査班では彼らの動向を窺うことはあったが、注意を促す声は聞こえなかったし、あったとしても強制捜査のできるような事柄は無かったのだ。
南条斎は研究者としても、責任者としても上手くやっている。
だから余計に南条太一の件だけが引っかかる。
「伊東くん」
「はい」
「この火事は、連続放火事件とは無関係よね?」
伊東は少し考えてから頷く。
今までの放火事件は火元が曖昧ではっきりしないのだ。だが、今回は男が灯油をまき、火を付けたという証言もとれている。
だとすれば、無関係と考える方が正しい。
「はい、理論上は」
「理論上?」
「ああ、すみません。そう考えるのが妥当です」
言ってから伊東は同じ事を言いましたね、と首を傾げる。
愛はちらりと笑う。
現場でこんな風に表情を緩めるのは珍しい。
伊東はきょとんとした表情で彼女を見つめた。
「どうかしましたか?」
「この火災、貴方が可能性あると思うのなら、ゼロ班でも調べましょう」
「俺の勘で動いて良いんですか?」
「貴方の勘が鋭いこと自覚なさい。その方がずっと効率が良いわ」
「過信はしたくないんです」
「過信かどうか、私が判断するわ」
愛はきっぱりと言う。この自信がどこからくるのか伊東は知らない。伊東を生活環境課から引き抜いた時もこの調子だったのだろう。
「眞由美を連れ戻してこの火災を調べるわ。あなたは柴田と南条斎の接点を調べて頂戴」
手帳を閉じて伊東は頷く。
「了解しました」
「……それと」
「はい?」
「今日も戻れないって、勇気に伝えてくれる?」
これは部下の伊東刑事ではなく、伊東猛に言っているお願い事だ。
最初はそのくらいは自分でやれ、といちいち腹を立てていたが彼女の性格に慣れるのと同じでもう随分と慣れた。
「はい、確かに伝えておきます」
伊東は頷いて緊急で設置されたはしごを下りる。
彼女の息子も同じだが、仕事面では器用なのにこう言うところに不器用なのだ。誰かがフォローしなければとっくに破綻してしまっている親子だろう。
二人のちょっとしたずれを直すのは別に苦痛ではなかった。
伊東ははしごを下りながら小さく笑みを漏らした。