3 嵐の前
「コーヒーのおかわりいかがですか?」
胸に鮫島と書かれた名札を付けた女が控え目な口調で尋ねる。
太一は片手でそれを断った。
「連れが来たら頼むよ」
「かしこまりました」
珈琲屋orange猫は落ち着いた雰囲気の店だ。
クラブのような派手で騒がしい店も好きだが、実はこういった静かな店の方が好きだ。穏やかで落ち着いた気分になれる。
店内を流れるリムスキーの曲を聴きながら太一は窓の外の通りを眺める。
短期間に色々な事があった。
こういった性格だから自分自身があんな形で暴走したことはあまり気にしてはいないが、鈴華に泣かれた事は正直堪えた。元々自分が泣くと他の人に余計な心配を掛けるからと滅多に泣かない子だ。それが目覚めたばかりの太一を前にして人目も憚らず泣いて怒ったのだからよほど心配をかけたのだろう。
彼女の為なら何だってすると心に誓った自分が彼女を泣かせるとはあまりにも粗末な結果だ。
からん、とドアベルが鳴る。
入り口を見やるとちょうど女が入ってきた所だった。彼女は店員に待ち合わせであることを告げるとすぐに太一の姿を見つけた様子で近付いてくる。
「ごめんなさい、待ちましたか?」
「いや、忙しいのにわざわざ悪かったな」
「いえ、誘って下さってありがとうございます」
そう言って彼女は、木村早希は太一の向かい側に座った。
白衣以外の姿はあまり見たことがない。
薄いピンクのシャツは彼女によく似合う。新鮮な感じがすると同時にどこか気恥ずかしい感じもした。
「体調、もう大丈夫なのか? 倒れたって聞いたが」
言うと彼女は驚いた様子を見せる。
「良く知っていますね。少し疲れがたまっていたみたいです。おかげで変な夢見ちゃって……」
「変な夢?」
「笑いませんか?」
「場合によるな」
からかうような口調で言うと彼女は少し躊躇って苦笑した。
「南条さんが赤毛の犬になる夢です」
「……!」
太一は絶句する。
その夢は笑えない。
早希は顔を赤くして息を吐いた。
先に注文をしてきたのだろう。彼女の目の前にコーヒーが運ばれてくる。太一のカップにも三杯目のコーヒーが継ぎ足された。
「……呆れてますね」
「あ、いや……」
「いいんです、自分でも馬鹿げてるって思いますから。それより用って何なんですか?」
早希はコーヒーカップに手をかけて太一の方を見る。
彼はポケットから小さな箱を出して彼女の前に置く。
不思議そうに彼女が見つめた。
「やる。滅茶苦茶遅くなったが、バレンタインの礼。病院で渡すわけにもいかないからな。……実は鈴華に怒られたんだ。お返しくらいちゃんとしろって。俺そう言うところ無頓着だから、その……悪かった」
「そんな、良かったのに」
言いながらも彼女の手は箱に伸びる。
「でも、ありがたく頂きます」
笑んだ彼女を見て太一はほっとする。
本当に今更だから突き返されることも覚悟していたのだ。
「あけても良いですか?」
「気に入るかどうかしらねーぞ」
大丈夫です、と彼女は言って箱を開く。
小箱の中には先日買った花のモチーフのネックレスが入っている。彼女はそれを取りだして目を瞬かせた。
「……南条さんが選んでくれたんですか?」
「そう言うのは、邪魔にならないって聞いたから。あんたに似合いそうなの買ったんだが……気に入らなかったら捨てていいからな」
彼女は首を振る。
「いいえ……! 凄く嬉しい……ありがとうございます」
「なら、良かった」
太一は微笑んだ。
早希は何故だか少し驚いた様子で太一の方を見る。
「……どうした?」
「いえ。少し、雰囲気が変わったって思って」
「そうか?」
太一は顎に手を当てる。
実際少し心当たりがあった。暴走して、鈴華に泣かれて、斎にも散々嫌味を言われて、ちょっと悩んでいたことをはっきり決めたというせいがあるだろう。
元々悩むより先に行動するような性格だ。
うじうじ悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなったというのが本音だ。
雰囲気が変わって見えるのはそのせいだろう。
早希はにこりと笑う。
「今の方がずっと南条さんらしくていいですよ」
「そうか」
太一はちらりと笑う。
彼女のことは多分嫌いではない。どちらかと言えば好きな方になる。彼女といると暖かい気分になれる。ただ、鈴華が何よりも大切な今は、それ以上のことは考えられなかった。
不意に鼻につく匂いを感じて太一は顔を外に向けた。
人間より敏感な嗅覚が窓越しに微かに焦げるような匂いを感じ取る。
「……どうかしましたか?」
「いや、今……」
言いかけた時、向かい側の建物の三階の窓ガラスが吹き飛び火の手が上がった。
店の中が一時静まりかえり、ざわざわと騒ぎ出す。火の手が上がったビルの店舗からは雪崩れ出るように人々が飛び出してくる。まるで生きているかのような炎が、三階の窓を突き破り赤黒い炎を上げる。
太一は奇妙な気配を感じて視線を人混みの中に移す。野生の勘が、何かを警告するように働いた。
逃げまどう人々に紛れるようにしながらビルから遠ざかっていく影。四十代前後の背の高い男。他の人とは違う不自然に冷静な態度。
(放火か?)
太一は立ち上がった。
早希に何か説明するよりも早くに店を飛び出す。店員の女にぶつかったためにカップが落ちて割れたが気に留めていられなかった。
あの男を捕まえなければ。
火事現場であんな不自然な態度を取るなど、疑って下さいと言っているようなものだ。太一の足ならばあの男を捕まえるのは容易い。
店を出ると焼け焦げたような煙の匂いが鼻を刺激する。太一は鼻を押さえながら男の姿を探した。駅方面にゆっくりとだが確実に逃げる素振りの男。微かに煙以外の何かの香りを感じ取る。店の前を横切り男に向かって走り出した太一の耳が細い鳴き声を聞き取る。
見上げたビルの二階。
取り残された子供。
「……ちっ!」
迷っている場合ではなかった。
太一は既に火の手が回り始めた一階店舗に飛び込む。
店の中はもっと酷い匂いがしている。スプリンクラーが回り始めていたが、既に火の勢いの強い今となっては無意味だった。見回した店内に取り敢えず人の気配がない。太一はそのまま奥の階段の方へ急ぐ。
一階と二階、そして三階まで繋がる階段は既に火に飲まれている。崩れた壁が邪魔をするように階段に覆い被さっていた。
びき、と彼の腕が音を立てた。
腕から指先に向けて筋肉が躍動する。逆立つような赤毛が手を覆った。爪が鋭い刃物のように輝いた。
勢いよく彼は振り下ろす。
ぶん、と鋭い音を立てて崩れた壁が粉砕される。人が通れる程の炎のアーチが作られる。
太一は常人を越えたスピードで二階へと駆け上がる。
窓辺で泣き叫ぶ小さな子供の姿が見えた。
がらがらと再び壁が落ち、退路がふさがれる。
太一は走って子供を後ろから抱き上げた。
一階には幌の様な屋根があったはずだ。
落ちれば助かる。
万が一にも幌が焼け落ちていても、太一の身体をクッションにすれば子供に衝撃は少ないだろう。万一怪我をしたとしても、ここで焼け死ぬよりはマシなはずだ。自分の身体能力ならば助ける自信はある。それに、人狼の強靱な肉体ならば二回程度の高さから落ちて命を落とすことはない。
迷う所ではなかった。
「歯を食いしばれ」
太一は子供に言い聞かす。
驚いたような大きな瞳が太一を見、そして頷いた。
下を確認することなく彼は子供を抱えて二階から落ちる。
抱きかかえた子供が強ばるのを感じた。
何かが当たる衝撃。
さらに身体が下に沈む。
屋根はまだ焼け落ちていなかった。
幌状の屋根に包み込まれて太一と子供は地面へと落ちる。
周囲が悲鳴の様な声を上げ、そしてざわめいた。
「南条さんっ!」
悲鳴を上げて近寄ってくる早希の姿を複雑な視点から見上げる。
子供は無事だ。
「応急処置を」
「南条さんはっ」
「俺なら大丈夫、子供が先だ」
分かりました、と頷いた彼女に子供を預け、太一は他の大人達に助け起こされるようになりながら身体を起こす。
そこにはもう男の姿はない。
(子供が助かったんだ、贅沢は言えねぇな)
太一は僅か自嘲するように口の端を上げた。