12 終局
「大丈夫?」
手を差し伸べると彼女は礼を言って明弥の手を掴んだ。
球場の使用許可をとっていないために、狭い通路から中にはいるしかない。通路と言っても破れたフェンスを潜ってよじ登る道だ。小学生の頃、この道を使って球場の中で遊んでいて良く怒られた。未だに直っていないのは管理が杜撰なのか、それとも直してもすぐに壊されるせいなのかは分からない。ただ、この通路のおかげで今球場の中に入ることが出来たのは確かだ。
鈴華には少し段差が厳しく明弥が上から引き上げる形で中に入った。女の子の体重を気にするのは失礼かも知れないが、彼女の体重は妙に軽い。明弥の力でも十分引き上げられるような重さだった。
「来て良かったの?」
「はい、太一君は……私の兄ですから」
「心配だよね。俺、頑張るから」
「……大丈夫ですか?」
問われて明弥は苦笑する。
やはり岩崎のようにはいかない。自分では彼女を不安にさせてしまう。
「頼りないだろうけど、出来る限りのことはするから」
「そうじゃないです」
「ん?」
「無理していないですか?」
していると言っても、していないと言ってもどちらも嘘だ。
明弥は微笑む。
彼女の優しさが嬉しかった。
「正直言うとね、逃げ出したいほど怖いよ。でも、何もしないで後悔するのはもっと怖い。出来る事しないで嘆くのは嫌なんだ」
「久住さん、もしかして……」
彼女が言いかけた時だった。
フェンスに何か叩き付けるような音が聞こえ明弥は慌てて振り返った。咄嗟に鈴華を自分の後ろに隠す。
数十メートルほど離れた先の金網が大きく揺さぶられている。
外にあるライトに照らされて、揺さぶっているものの姿が見え隠れした。
赤い毛並みの大きな犬型の動物……太一だ。
「そんな……まだ、早いのに……」
鈴華が怯えたような声をあげる。
密着した身体から小刻みに震える振動が伝わってくる。いや、震えているのは明弥自身も同じだった。
覚悟していた。
けれどやはり怖い。
「鈴華ちゃん」
守らなければ。
「……戻って、岩崎君探してきて」
せめて、彼女だけは。
「早くっ!」
彼女の身体を突き飛ばすのと同時に明弥は真逆の方向に走り始める。
同時に金網を突き破った赤毛が高く跳躍した。
「久住さんっっ!!!」
悲鳴のような鈴華の声。
明弥は身を低くして獣の鋭い爪を交わす。頭上を鋭い風が横切った。
どうすればいい?
混乱する頭を冷静にさせようと明弥は再び走る。市営の球場とはいえそれほど広くないグラウンド内を走り執拗に襲いかかる太一の攻撃をギリギリのところで交わしながら、彼が人間の姿に戻ることだけを祈り続ける。
強く想う。
戻したいと。太一を死なせたくない、鈴華を悲しませたくない。自分だって死にたくない。
影響の波は出ているのだろうか。
どうしたら彼が元に戻るのだろうか。大柄で怖そうだけど、優しい目をした彼に、どうやったら戻るのだろう。
「太一君、止めて!!」
泣き叫ぶような声。
鈴華が泣いている。それでも太一は反応を示さなかった。
まるで獲物を追い立てるように太一は呻り声を上げる。遊びはおしまいだ、そうとどめを刺すことを宣言するような声。
振り向いた瞬間、身体に大きな衝撃を覚える。
牙しか見えない。
「……っ!」
明弥は目を瞑る。
「‘夜芸速の 十拳剣 此れ火産霊と成り’!!」
突然、岩崎の叫ぶ声が聞こえ太一の身体が炎に包まれる。
目を開くとこちらに向かって走ってくる彼の姿が見える。
何が起こったのか明弥が理解するよりも早く。彼は太一に向かって体当たりをする。炎に包まれていたように見えた太一は、ひるんだ様子を見せていたが、その身体の周りに炎は見られなかった。
大きな獣の身体は激しく飛ばされた。
岩崎は明弥を庇うように前に立ちながら何かを呟くように言う。
「‘千早振る神のすまいは吾が身にて いで入る息もうちそとの神’」
独特な節を持った声だった。
いつもの岩崎の喋る口調や声質とも違う。
不思議な韻律だった。
彼は手のひらに何かを載せてふっと息を吹きかける。細かく刻んだ紙のような白いものがふわりと空中に飛び散る。
その細かい白い破片は地面にゆったりとした円のような形を描く。
彼の手のひらは火傷でもしたかのように赤く爛れていた。
明弥は目を瞬かせた。
「‘ひと ふた み よ い む なな や ここの たり’」
岩崎の向こう側で太一が起きあがる。
彼は空中に何か描くように手を動かした。
「‘ふるへ ゆらゆらと ふるへ’!」
「!」
明弥は覚えず耳に手を当てた。
彼の言葉に呼応するようにあたり一帯に耳鳴りのような甲高い音が響き渡った。空気が震えているのだ、と明弥は思う。
ぐぁああ、と太一が今までにない苦しげな声を上げた。
「久住!」
促すように彼が叫ぶ。
やれ、と言っているのだ。
明弥はとにかく強く念じる。
だが、
「岩崎君!」
目の前の岩崎の上に、狂ったように吠えながら太一がのしかかる。
だめだ、間に合わない。
明弥は頭の中で悲惨な光景を連想する。
獣に頸動脈を噛まれ目を剥く彼の姿。
そんなの、嫌だ。
何かが。
自分の中からせり上がってくる。
吐き気のように、
そしてそれは引っ張り上げるように明弥の意識を飛ばす。
見えたのは底なし沼のような黒い影だった。
全てのものを引きずり込もうとするように混沌とした影から触手が伸びる。
そこから手が生えている。
否、影が誰かを引きずり込もうとしているのだ。
もがき苦しむような手を明弥は掴んだ。
離したら終わってしまう気がした。
ずるずるとそれは明弥までも飲み込もうとするように影が迫ってくる。
明弥の手が半分埋まった。
黒い影次々と伸ばされ明弥の首を掴む。
それでも手は離したくなかった。
(これは、太一さんなんだ)
離したら明弥は助かる。
でも、太一さんは間に合わない。
諦めたくない。
今、彼の手を、残された意識を握っているのだから。
……ズミ
声が聞こえる。
誰から自分の手を掴んだ。
引き上げようとするように。
(いける)
明弥は渾身の力を込めて太一を闇の沼から引き上げる。
強く、何かが輝いた。
「久住!」
明弥ははっとした。
自分の肩を掴んで揺さぶっている男の姿が見えた。
何が、どうなった?
「……いわ……さき、君?」
呼びかけると彼はほっとしたように息を吐く。
気が付くと球場の中には沢山の人がなだれ込んできていた。
作業服を着ている者もいれば、警察の制服を着ているものもいる。いつの間にこれだけの警官がここに着たのだろうか。
「……太一さんは!?」
辺りを見ても赤毛の男の姿は見えない。
その代わり警察官が何かを調べている姿が目に入る。
まさか、と不安がよぎった。
女刑事が溜息をつくように言う。
「大丈夫よ、今病院から連絡があって命に別状は無いらしいわ。鈴華という女の子も一緒よ。……言っておくけど、獣医ではないわ」
彼女はそれだけを言い明弥から離れていった。
明弥は岩崎を見る。
「それじゃあ」
「ああ、ちゃんと人の姿に戻った」
「………良かったぁ」
言うと岩崎が吹き出した。
明弥は目を丸くした。
こんな風に笑った顔を見たのは初めてじゃないだろうか。
「お前、人のことばっかだな」
「そ、そうかな?」
「何はともあれ、お前、よく頑張ったよ。……ありがとう」
「え? あれ、お礼言うの、こっちだよ」
彼は首を小さく振って明弥の肩に額を押し当てた。
一瞬泣き出したのかと思って戸惑うがそうでは無かった。彼はおかしそうに笑いながら肩を振るわせている。
その様子がおかしくて明弥も吹き出した。
こうして、明弥の長い一日はようやく終わりを告げた。