11 澱の中に
沈んでいく。
淀んだ澱の中に。
光を見失う。
何も聞こえない。
何も。
「久住」
呼びかけられて明弥ははっとする。
インパクトという力について考え込んでいるうちにぼーっとしてしまったようだ。鈴華が心配そうにこちらを見つめている。
無理しないで下さい、そう言われている気がして、大丈夫だと微笑んでみせる。
明弥は普段と変わらないように振る舞った。
「何? もう着く?」
「…………。ああ、もうすぐ着く。その前にもう一度確認しておこう」
「う、うん……」
彼は地図を広げて書き込まれた線を示す。
今、明弥達は新しく呼んだタクシーで市が運営する球場へ向かっている。この辺りで一番広く見通しの良い場所はそこか学校のグラウンドくらいしかない。人気の無さや追いつめやすさを比べれば球場の方が良いだろうと彼が判断したのだ。
そこに太一を誘き出し、インパクトを使って元の形に戻すのだと彼は言う。
本当に自分に能力があると自覚できない。けれど、ここまで来たらやるしかないのだろうと思う。
「彼がこのゲートから球場の中に入ったら、俺が行動範囲を狭めていく。お前は彼を止めることをただ強く念じ続ければいい」
「……本当に来るの?」
「来る。水守祐里子のおかげで少し細工を思い付いた。奴がその誘いに引っかかっているなら既にここに向かっているだろう」
「引っかかっていなかったら?」
尋ねると岩崎は一瞬口を噤み、一拍置いてから返事を返す。
「……お前は、彼に好かれている。だから、どっちにしてもお前を狙ってくるだろう。それは経験済みだと思うが?」
確かに明弥は初めて彼に遭遇した時から狙われている。
犬でさえ空気に紛れた匂いを嗅ぎ分けられる。人狼の嗅覚がどれだけあるのかは知らないが、人間より遥かに優れているだろう。多分、匂いを辿って明弥を狙ってくるのだ。
「……! 止めて下さい」
彼は急に運転手に向かって叫ぶ。
まだ入り口に到達していない。
車が急停止し、車内が大きく揺れる。
岩崎の瞳は背後の暗がりを見つめている。
「ど、どうしたの、突然」
「……状況が少し変わった。久住、鈴華、お前達二人で先に向かってくれ。俺は後から追いつく」
「ちょ……岩崎君!」
岩崎は一万円札を明弥に押しつけるとそのまま外に飛び出していく。
彼の姿はすぐに暗がりに飲まれて消えた。
※ ※ ※ ※
「眞由美さん」
勇気は暗がりの中に呼びかける。
タクシーの中に見えたのが間違いでなければすぐ近くに彼がいるはずだ。
こっち、と手を振り呼びかける女装をした男の姿を見つけて勇気は彼に駆け寄った。
「早いですね。……母から全部聞いていますか?」
もちろん、と彼は頷く。
「勇気くんのお願いだもの、私大急ぎで来ちゃったわよ」
「伊東さんは?」
「向こうで待機しているわ。警察部隊、いつでも動ける準備出来ているわよ」
「部隊って……よく中津さん説得できましたね」
藤岡は腰に手をあてて遠くを眺める。
「勇気くんたちが自分たちだけで動くつもりだって言ったらあっさり納得したわよ」
「そうですか」
先刻、勇気が母親の愛に連絡を取った時、万が一のことに備え警察部隊の編制を要請した。正直こんなに早く来てもらえるとは思っていなかったし、最悪少人数部隊である岩崎班しか動かないかとも思っていた。
けれども愛が機転を利かせたのだろう。
ただ、中津も勇気の性格を知っている。自分たちだけで解決しようなどと思うような考えを持っていないことくらい分かっているだろう。ひょっとしたら、騙されてくれたのではないだろうか。
「むしろ愛の方が乗り気じゃなかったわ」
だろうな、と勇気は思う。
愛はどんな些細な事件でも勇気が関わりを持つことを嫌がる。しかし超常現象に関わる事件か否かを判断する時、勇気のような稀な力が必要になってくる。だからいつも仕方なく協力させたが今回のように明らかにリスクの高い事件では関わらせたくは無かったのだろう。
だが、勇気が珍しく強く押したことを簡単に反対はできなかったのだ。
結局乗り気でなくても愛は動いた。
息子としてでなく、超常能力者として信頼されていなければ叶わなかったことだ。
「相方君には私たちが待機していること、教えなくていいの?」
「あいつには……保険をかけていること知って欲しくない」
勇気は少し言い淀む。
へぇ、と藤岡はニヤニヤと笑う。
「勇気くんも可愛いところあるのねー」
「違います。久住を本気にさせるためです」
「あらあら、せっかく友達になれそうなのに、それじゃあ嫌われちゃうわよ」
「俺はそれでいいんですよ」
彼が影響の波を出せるか否か、それは半信半疑だ。しかし彼がその力を持っているのは確実だ。今までのことを考えれば彼は追いつめられていないと力を出せない。
警察が控えていることを知れば甘えが出る。
だったら知らせずに追いつめるしかない。
優しいフリをしてこんな陥れるような卑劣な手段に出たと知れば、いくら毒気のない彼でも怒るだろう。
それでも構わないと思った。
例え憎まれる結果になっても、明弥が自覚をして彼自身や周囲の危険が減るのならばそれでいいと思う。
今までだってそうしてきたのだから、今更また誰に恨まれても平気だ。
「球場に人狼を追い込んで下さい。おそらくもう既にこの周囲には来ているはずです」
「オーケイ、勇気くんはどうするの?」
「準備があります。久住たちと合流します。万が一の時は合図を……」
送る、という言葉に被さるように球場の中から叫び声が聞こえる。
鈴華のものだ。
血の気が引いた。
「まさか、早すぎる……っ!」