10 サザナミ
日は堕ち、そろそろ一般家庭は夕食時を迎える頃だろう。
夜勤明けも常務をこなせばさすがに疲労もピークに達する。木村早希はあくびをかみ殺しながらふらふらと家に向かって歩いていた。
過酷だというのは知っていたが看護士というのは想像した以上の職業だった。小児病院が少ない今、入院患者の数は異常なほど多い。ベッドの空きも少なく、部屋にギリギリの人数を詰め込んでもまだ足りない。医師はもちろん、看護士の数も足りない。
その職業を選んだのだから文句をいう資格などないが、正直辞めたいと思うことも何度もあった。ここまで疲れて帰ってくるとやはり辞めたいと思うことの方が多い。
続けているのは子供達の笑顔と感謝の言葉があるからだ。
見返りを求める訳ではないけれど、それが無ければ今も看護士など続けていないだろう。
それに、と早希は思う。
(それに、今辞めたら南条さんと接点無くなっちゃう)
南条太一は南条鈴華の兄だ。鈴華は一年の大半を病院で過ごしている。彼女が入院していると忙しい長兄に変わって週に何度も病院を訪れてくる。このところ鈴華が一時退院を許可されたために、太一と会う機会も減ってしまった。
それが最近早希を気弱にしている原因の一つなのだろう。彼となかなか会えないもどかしい日々を過ごしているうちに次第に看護士を辞めてしまいたいと思うようになってきた。けれど、今看護士を辞めてしまえば彼との接点が完全に消えてしまう。
入院患者の兄である彼に、どうやら自分は恋をしてしまったらしい。
早希は小さく溜息をついた。
少し前までこうではなかった。
太一に会えれば少し嬉しいだけで、ここまで恋い焦がれることはなかった。不安が余計にそうさせているのだろうと思った。
鈴華が退院するその日、もちろん太一か、その上の兄である斎が来ると思っていた。だが、来たのは委任状を持った坂上という運転士の男だった。斎は普段から忙しくしていたから分かるが、彼が来られない日に太一が来ないと言うことは今まで無かった。何かあったのかと尋ねて見たが、運転士は風邪を引いたのだと言葉を濁すように言った。それから彼には一度も会えていない。
彼の身に何かあったのではないかと不安に思う。
不安に思っているうちに自覚した。
自分は、南条太一のことが好きなのだと。
まるで学生のようだな、と自分でも可笑しくなる。そのくらい純真に彼のことが好きになってしまっていた。だから、彼に会えないことが不安なのだ。彼に何かあったのではないかと無意味な心配をしてしまう。
「馬鹿みたい」
彼女は自嘲気味に笑う。
そんなに心配ならば自宅に電話をかけてみればいい。会いたいのならそう伝えてみればいい。気の優しい彼のことだから無下に断るような事はしないだろうと思う。
けれど、やはり怖いのだ。
「?」
視線を少し上げたその時だった。
彼女の視界の端に、赤い影が入り込んだ。
「南条さん?」
彼のことを考えていたから連想してしまったのだろう。視界の端に入り込んだ赤い影が太一のような気がしたのだ。影は目の前の十字路を横切るように道を進んでいったように見えた。
足早に彼女は十字路の所に急ぐ。
何故だか、彼に会える気がしたのだ。
夕食時のせいか人気のない道を覗き込んで彼女は息を飲んだ。
街灯の下に立つのは、太一ではなかった。……人間ですらなかった。
狼のように大きい犬。
明るいライトに照らされてその毛並みは赤く輝いていた。
早希は一歩後退した。
(どうしよう……)
不意に思い出す少し前に獣に襲われて病院に運ばれてきた男の子のこと。警察の話では街中で狼のような赤毛の犬に襲われたという。
多分、その犬がこの犬だ。
犬はこちらに気が付くと街灯の真下で、飛びかかる寸前のように身を低くして呻り声を上げる。
早希は犬から視線を逸らさないように片手でバックの中を探った。
指先にぶつかったのはデオドラントスプレーの缶。武器になりそうなものはそれくらいしかない。
彼女は取り出して構える。
走って逃げれば犬は反射的に追いかけてくる。徐々に後退していくのがいいだろう。万が一襲いかかられた時はスプレーで驚かせた隙に何処かに逃げ込むしかない。幸い住宅街だ。民家に逃げ込めれば何とかなるだろう。
考えた矢先だった。
犬が地面を蹴る。
「!」
動くことも出来なければ、悲鳴さえも上げられなかった。
高く跳躍した犬の身体が早希の上に覆い被さる。
その身体は大きく、早希よりもずっと大きな獣だった。力も尋常ではない。押さえ込むような前足が左肩と肺を強く圧迫した。
「っ……」
息が出来ない。
もがくと、前足が肺から外れようやく呼吸が出来るようになる。
早希はもがきながら唯一自由に動く右手でスプレー缶を犬の頭部めがけて叩きつける。しかし、犬はびくともしない。
もう駄目なのかも知れないと半ば諦めた時だった。
犬の片耳に光るモノを見つける。
それは太一が耳に付けているループのピアス。
「………な……ん、じょうさん?」
「……っっ!!」
呟いた瞬間、犬の呻り声が苦しそうな声に変わる。
自分でも何故そう呟いたのかわからない。
何故か犬が彼のような気がしてならなかった。そんな風に考えてしまうのはおかしいことだが、その時の早希は疲労に加えて動揺していたために正常な考えが出来ていなかった。
殆ど確信をして早希は犬に向かって呼びかける。
「太一さん!」
苦しんでいる。
犬が。
まるで人が顔を覆うように、犬の前足が顔にかかる。よろめくように犬がゆっくりと彼女の上から退いた。
ふらつきながら徐々に彼女から遠のいていく。
「……太一さん……」
追いかけようと彼女が動くと、犬が脅迫するように呻り声を上げる。
来るな。
まるでそう言われた気がした。
早希は上半身を起こしたままその場を動けなかった。
やがて赤毛の犬はゆっくりと歩いていく。後ろ姿が闇に飲まれていく。
涙が溢れた。
恐怖や安堵によるものではない。
あの犬が、太一が自分を庇ってどこかに消えてしまうような気がして辛かったのだ。
ふつり、と何かが切れるように彼女の身体がアスファルトの上に落ちる。
意識が遠のいていくのが分かる。
薄れていく意識の中で彼女は祈る。
彼に何事も無いことを。
南条太一が無事にいることをただ祈った。